個人にアイデンティティーが必要なように、共同体にもアイデンティティーが不可欠だ。それが神話である。上橋菜穂子先生の小説で、自分の民族の創生神話が絶対だと信じて疑わなかった主人公が他の民族の長に次のように諭される場面がある。
「私達の神話はあなた方のそれとは異なるものだが、だからと言って我々はあなた達の創世神話を否定したり、優劣を競ったりするつもりはないのだよ。」
それを聴いた主人公は衝撃を受ける。正確な文面は忘れたが確かその様な内容だったと思う。成熟した大人の意見だ。自らを相対化することで、他の神話をも肯定している。非常に示唆的だ。まさに現代に求められる多様性と言える。さて私は前回の文章で「お釈迦様」と言う仏教徒にとってのアイデンティティーを「相対化」した。これについて思うところがある。
どんな宗教の信者であれ、その人が敬虔な信者であればあるほど、自らの宗教を「相対化」する事が難しくなってしまうのではないか。つまり自身を外側から見るという視点を失いがちだ。視野を広げるとは、もしくは歴史を学ぶとは、自らを「相対化」することに他ならない。それが出来にくくなる。宗教というものの悪しき側面はまさにその一点に集約されると思う。全能の神などと言うものに対して私は以下のように考える。
全能と言うからには自らに従わない者を創り出してみればよい。創り出せれば、創り出された者は従わないのだから、全能ではないし、創り出せないとすればやはり全能ではない。つまり全能の神などと言うものはありえない。
これが私の持論だ。その点、釈迦とは妻子を捨てて修行に出た極々人間的な存在で、それもあって今回、芥川龍之介の描きだした「釈迦像」を「相対化」してみたわけだ。絶対的な存在というものに私は常に懐疑的だ。何故ならそれを受け入れてしまった時点で自ら思考することを放棄してしまうからだ。こんなことを書くと、どこぞの宗教団体に背中から刺されそうだが・・・まあそれも仕方ない。表現するという事は常にリスクを伴うものだから。だからと言って誰も何も表現しなくなった時、その共同体は自浄作用を失ってしまうのではないだろうか?それこそが最も恐ろしいことだと私などは愚考するのだが・・・。まあ、その時は仕方ない。尻尾を巻いてすたこらさっさととんずらだ・・・(笑)。
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