先日、書籍を3冊購入した。どれも10代20代の頃夢中になって読んだ、ある作家の本だ。で、今も夢中になって読むかというと、そうでもない。正直、心の中でもうこの作家から得るものはないな、と思いつつ読んでいる。名編集者の高橋一清氏が「同一平面上に同じような作品を投げかける」と表現しているが、先日私が購入した作家もまさにそれだ。そこには私が10代20代の頃に読んだのと同様のテーマが描かれている。高橋一清氏が自分は編集者として作家の新たな魅力を引き出すために、作品を経るごとに新たなテーマを投げかけてきた、とその著書で述べておられたが・・・。
一人の人間である以上描かれるテーマには限りがあるのは仕方ないことかもしれない。村上春樹氏の作品だって本当に面白いのは「風の歌を聴け」に始まる青春3部作と「ノルウェイの森」「ダンスダンスダンス」あとは「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」など村上氏が比較的若い頃に執筆したものがほとんどのように私には思える。全部読んだことがあるわけではないが宮城谷昌光氏の作品群もどれも同じテーマが描かれているとの事。分野は異なるがあのピカソでさえ、自分が開拓したテーマには限りがあり、残りのテーマは他の画家が主題としていたテーマを剽窃したに過ぎないと、あるTV番組で述べていた。ただピカソの凄いのはその剽窃したテーマの種類と描いた数で、それが本家の画家を圧倒していた事。よってそれがあたかもピカソ独自のテーマであるかのように印象付けられてしまったのだという事。
ピカソは別としてこういった作家とテーマの関係性について私の近しい人が次のように述べている。「出涸らし」と。うまいこと言うなあと感心した。「出涸らし」だとわかっていてもその著者の書籍を購入して読んでいるのは我ながら滑稽な限りだが、そこにはそれなりの理由がある。この作家には本当にお世話になった。だからその恩も含めて今も書籍を購入して読んでいる。単なるギブ&テイクを超えた関係がそこにはある。ああ、これをファンというのだろうか、と思った。
さてこの話を相対化すると私自身もいずれは「出涸らし」になる。いずれは「長谷川の文章を読んでももう得るものはない」と言われる日が必ず来る。それは不可避だ。ただ、それを先延ばしにする事はできる。さだまさしさんがNHK「SONGS」の中で述べておられた。(シンガーソングライターとしてやっていくのは)下りのエスカレーターを逆走する様なものだと。そうやって芸能界を生き延びてきたのだと。うまい表現だ。私も執筆活動を続けていくならば下りのエスカレーターを逆走しなければならない。その為には本も読まねばならないだろうし、人間に揉まれる必要もあるだろう。今のうちにファンをたくさん作って将来的にはそのファンに支えてもらおう、とは思わない。必要なのはファンに支えられる表現者になるのではなく、心理的に精神的に読んでくれる人(ファン)を支え続けることができるような表現者でありたいと、そういう気概かもしれない。
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