宮沢賢治が好きです。宮沢賢治の何がいいって、彼の「とっぽい」ところです。えっ「とっぽい」ってどういう意味?と思われた方、「とっぽい」の辞書的な意味は、ここでは「どことなく間の抜けた」が当てはまります。でもそれだけでは「とっぽい」の真の意味を理解したことにはなりません。「とっぽい」の現代的な意味が何なのかを知るために、まず次の詩を見てください。
『こんなに
憎み合うのは
あんなに愛しあったから
なので
しょうか』
どうですか?この現代詩?全然「とっぽく」ないですね。はっきり言って私はこの詩が苦手です。というか、いわゆる「ドロドロの愛憎劇」というものが私は嫌いです。昼ドラのそれです。結論から言うと、非常に中身が濃いようでいてその実、薄っぺらいのです。偉そうなことを言うようですが、「人を愛する」というのは「相手の欠点や落ち度を含めて受け入れる」という事ではないでしょうか?相手の美点だけを見てのぼせ上がり、一時の情熱が覚めるとそれが憎しみに転化する。共依存だか何だか知りませんが、簡潔に言うと各人が独り立ちできていません。悪意や憎しみを容赦なくぶつけるというのは、精神的な幼さ、言い換えればお互いに対する甘え以外の何物でもありません。甘え合えるのはそれは幸せなことですが、単に人間としてカップルとして幼いともいえます。それに対して次の詩を見てください。
『いつ
えらばれてもいいように
いつ
すてられてもいいように』
こちらの方が私は好きです。基本的に人って自分の足で立つものでは?という観念が私の中にはあります。その上で他者と関わっていくものではないでしょうか?こちらの方が、どんなに愛し合っていてもあくまで自分は自分、相手は相手なのだという、共通理解のもとにその関係性が成り立っています。なんだかフランス人の大人のカップルの様です。
さて、村上春樹さんによると日本の近代文学の主流は前者のドロドロの関係性を描くことにあったとの事。夏目漱石の『こころ』然り、谷崎潤一郎の『痴人の愛』然り『卍』然り。ただ異彩を放つのが宮沢賢治の一連の作品群。『銀河鉄道の夜』などはそのよい例です。テーマとスケールが違う。
なんでもある研究者に言わせると宮沢賢治はいわゆる恋愛らしき恋愛をしたことがなかったのではないかとの事。「とっぽい」ですね。男女の関係性などよりも「本当の幸せ」を探し続ける事を彼が生涯のテーマとしたのも解る気がします。もし、宮沢賢治が凡百の「ドロドロ愛憎劇」など描いていたら今に名は残っていなかったでしょう。にもかかわらず、「ドロドロ愛憎劇」が一般受けするのは何故でしょうか?これもある作家の受け売りですが
「人は理念や理想の為に戦うのではない、理念や理想を体現した人のために戦うのだ。」
つまり人は自分同様、血の通った人間を求めるのであって、何か抽象的な理念や理想を求めるのではないという事。(もしくはそれができるのはごく一部の人)その辺が一連の日本人作家と宮沢賢治の違いなのでしょう。
抽象と具体、理想と現実と言った二項対立で考えることも可能ですが、私は単純に宮沢賢治の方が好きです。全作品を読んだことがあるわけでもないし、この人の生涯を詳しく知るというほどに知っているわけでもない。ただ、先程申し上げたように、いわゆる「とっぽい人」だったのだろうなという事はいくつか読んだ作品からなんとなく推測できるのです。そうです。「とっぽい」には「夢見がちな」とか、「損得勘定の苦手な」とか、「お人好しな」とか、「世なれぬ」とかそういった意味が含まれているのです。「とっぽい人」いいじゃないですか。
物質的に満たされた現代では、形ないものに想いをはせる「とっぽい人」こそ必要とされるのではないでしょうか?好きです。「とっぽい人」。好きです。宮沢賢治。とっぽい人バンザイ!
(上記の2つの現代詩はイチハラヒロコ氏によるもの)
(『銀河鉄道の父』門井慶喜著を参照)
※ 以前このブログに綴った「とっぽい人」を加筆修正しました。お読みいただければ幸いです。
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