「音楽を奏でるとはすなわち世界に愛を届けるという事だよ。」
現在愛読しているマンガ『ブルージャイアント』のセリフだ。ある登場人物は、サックス奏者の主人公ダイに対し「あなたは“GIVER”ね。」と言う。音楽だって、何かを表現する事だって、また、医療や教育(例えば私が携わっている学童という仕事)だって、この“GIVER”でなくては出来ない仕事だ。いや、多分どんな職業だって究極的には周囲の人や相手の幸せを願わないと“いい仕事”ってできないのではないだろうか?そう思うようになって久しい。ではどうしたら人は“GIVER”たり得るのだろう?逆に考えると、どうしたら“GIVER”であり得ないのか?
知人から聞いた話なのだが、先日の雪で知人の娘さんが創った雪だるまを、それと知った上で同級生の二人が壊したそうだ。それを見た知人の娘さんは大粒の涙をこぼして泣いていたそうな。ひどい話だ。雪だるまに限らず、誰かにとって大切なものを、というか大切だからこそ、貶めたり、汚したり、壊したり、奪ったりする輩が一定数いるのも確かだ。
その話を聞いた私は「壊した子供たちは愛情不足なのかな?」と直感的に思った。逆を言えば、愛情を十分に注がれて育った子供はそんなことしない。自分が受けた愛情を誰かにおすそ分けしたくなるのではないか?その意味で“GIVER”たり得るための必須条件は十分に愛情を注がれたかどうかなのではないか?
私がそう伝えると友人は「それは一面的な見方だよ。その傾向はあるかもしれないが、状況次第で人は“GIVER”にも“TAKER”にも“デストロイヤー”にもなりうる。」と答えた。確かに・・・。どんなに“GIVER”であろうとも、自分の大切にしているものを汚されたり壊されたりしたら、今度は“GIVER”が転じて“destroyer”になりかねない。それもよく解る話だ。では出来るだけ多くの人が“GIVER”たり得るには、また、“GIVER”であり続ける為にはどうしたらよいのか?そんなことを考えていたら「調和」という言葉が脳裏をよぎった。誰もが周囲に敬意と情愛をもって接すれば先のようなことはなくなる、事はないにしてもより少なくなるのではないか?本人が言ったかどうかは知らないが、島国だという環境要因を考慮したのはもちろんの事、以上の様な思考過程を経た上で、聖徳太子が「和をもって尊しとなす」としたのだとすれば、それはもう脱帽以外の何物でもない。
しかしこの「調和」という概念が近年進むグローバル化の中で行き詰まりつつあるのもまた事実だ。地球は間違いなく一体化しつつあって、歴史の流れを逆行させる事はできない。である以上この「調和」という概念に「契約」という概念が置き換わるのは時間の問題かとも思われる。
その様な社会の中で私たちはどう“GIVER”たり得るのか?私には解らない。ただ、近しい人たちの幸せを祈るこの姿勢だけは失いたくないものだ。
皆さんはどうだろうか?GIVERかTAKERか?はたまたdestroyerか?出来る事ならGIVERでありたいと願うのはおこがましい事だろうか?ただそれとは別に、子供にとっての最大のGIVERはやっぱり母親なのだとは思う。学童で働いていてもそれを日々痛感する。曰く女性にはかなわないと・・・。
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