「先生は何で教師になったの?」
「来たね!その質問。一休さん知ってる?」
「知ってる!とんちの一休さんの事でしょ!」
「そう、その一休さんと将軍 足利義満の話」
将軍「一休、この屏風に描かれた虎を捕まえてみよ」
一休「わかりました。ではまず、なわを用意してください」
将軍「ほれ用意したぞ、約束通り屏風の虎を捕えてみよ」
一休「わかりました。では次に屏風の虎を外に出してください!」
将軍「屏風の虎を外に出せるか!」
一休「屏風の虎を捕えられるか!喝!」
「私が将軍でみんなにはこの一休さんのようになってほしくって教師になったんだ!」
「はぁ?意味わかんないし」
「確かにわかんないよね。この話で一休さんは『そんなことできるわけないだろバカヤロー!』と将軍さまを怒鳴りつけているんだけど、私も生徒ってのは最後には教師を超えていくものだと思っているんだ。だからこの話を紹介したんだ。」
「生徒に超えられたいの?」
「超えられたいっていうか、最後には、つまり卒業するころには生徒は教師を相対化するべきだって思ってる。難しくいうとね。」
「相対化って何?」
「まあハセガワも人の子だし、しょうがないか!って大目に見る事(笑)。」
「ふーん。っていうかそんなの今でもしてるし。」
「そうかな、そうは思えないな。だってみんなトイレすらひとりで行けないじゃん。全然自立できてない。」
「トイレではいろいろあるんだよ。女子には。」
「ふーん。まあいいや。じゃあ、一つありがたい話をしてあげよう!『鋼の錬金術師』ってマンガを知ってる?最初のエピソードが面白い。ある若い女性が恋人を亡くした悲しみから宗教にはまっちゃうんだ。熱心に信仰すればその恋人が生き返るってそそのかされて。ところが主人公の鋼の錬金術師(自分の母親を蘇らせようと、禁忌とされていた人体錬成を行い、その代償として右手・左足を失い義手義足になった)がその宗教のインチキを暴く。結果その若い女性は何と言ったか?」
「これから私は何にすがって生きていけばいいの?教えてよ」
それに対して主人公は
「そんなことは自分で考えろ。立って歩け!前へ進め、あんたには立派な足がついているじゃないか。」
「(10年以上昔のマンガだから表現的に少しどうかなという面もあるけど)言わんとしていることは今でも十分通じるよね。まずは一人一人が自分の足で立って歩いて、その上で支えたり支えられたりするんだ。そのためにも、まずはトイレに一人で行こう!」
「だからトイレ関係ないって。でも先生が何にこだわるかが解った。っていうか先生が何で先生になったかちょっと解った。っていうか、ある意味ウチらもう超えた!?ハセガワ超え(笑)!?」
「おいおい勘弁してよ。(笑)そんなことより今度の中間テスト、平均点越えてね!頼むよ。」
(『鋼の錬金術師①』 荒川弘 2002 ガンガンコミックス)より
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