憎しみの連鎖とは次第にエスカレートしてゆくものらしい。
ロシア・ウクライナ間のそれであり、聖地エルサレムをめぐる中東のそれだ。日々エスカレートしてゆく憎しみの連鎖、報復の連鎖は見るに堪えない。どうにかしてこれらの連鎖を断ち切るすべはないのか?
北野武監督の作品に『アウトレイジ三部作』がある。北野さん演じる主人公は、最終的には自身の命を絶つことで憎しみの連鎖を断ち切る。そこがカッコよく、ある種の美学でもあるわけだが・・・。しかし、その終わり方には救いがない。映画館を出てくる人がみな下を向いていたのを覚えている。救いがないのだ・・・。
やはり、憎しみの連鎖が消滅するにはある一定程度の時間が不可欠なのだろうか?私のようなちっぽけな人間(ちっぽけだからこそなのか?)にだって、20年近くたってやっと許せるようになった人・出来事と言うのがある。それこそ世代が丸々交代するくらいの時間を彼らは必要としているのかもしれない。
話は移るが、我々日本人は「周りに迷惑をかけないようにしなさい。」と言われて育つ。これに対し、インドでは「貴方は周りに迷惑をかけて生きているのだから、周りの事も許しなさい。」と言われて育つそうだ。これを知った時、インドのほうがこの点に関してよく考えられている。さすがに歴史がある。と素直に思った。
そうなのだ。誰だって誰かに迷惑をかけて生きている。私などその最たる例かもしれない。家で、職場で、街でいろいろな人に迷惑をかけて生きている。その謙虚さと自覚を忘れてはいけない。
このインドの教えを一国の指導者と言われる人たちが、少しでもわきまえていたら、ここまで憎しみの連鎖がエスカレートすることは無かったかもしれない。もしくはもう少し火種が小さなうちに消化できたかもしれない。
何にせよ、そこには【謝る勇気】と【許す度量】が必要なのだ。そしてそれは争いの火種ができる限り小さいうちに為されるべきなのだ。それこそ、争いの火種が生まれる前に、その火種自体ができないよう努めるのに越したことは無い。その意味で公安関係者にしろ、先の民放のドラマ『VIVANT』ではないが、別班と呼ばれる方々にしろ、彼らの為すところは大きいのかもしれない。
最後に、『謝る勇気』と『許す度量』を教えてくれるインドの教え。そのインドもまた核保有国であるという事実も忘れてはいけないと思う。そんなもの持たなくて済むならそれに越したことは無いのだけれど・・・。勘違いしないでください!日本も持つべきとか言っているわけではありませんよ。ただ、そうした現実感覚も必要だとは思うのです。理想ばかり見ていると足元をすくわれるので・・・。
ではまた!
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