その昔クイズが異様に流行った時代があった。ご存知の方もいるかもしれないが『アメリカ横断ウルトラクイズ』などはその最たる例だ。私の在学していた高校でも「クイズ研究会」なるものがあり、割と、というか凄く学力の高い連中が入会していた。私はというとそれを内心冷めた目で見ていた。何故なら知識を得ることそれ自体が目的化しており、いわば「知識の為の知識」になってしまっていたからだ。知識とは本来何かを成すために必要となりその都度、体系的に身に着けていくもので、その獲得自体が自己目的化しては元も子もない。
これは何もクイズに限ったことではない。本来の役目をどこかに置き忘れ、それ自体が目的化してしまった場合、何か大事なものを履き違えてしまうのではなかろうか?敢えて例外を上げるなら~ingというたぐいのものだ。ジョギング、スイミング、スキーイング等々。これらは自己目的化がマルな例だ。ここではそれらはひとまず置いておく。
話は若干飛躍するが、私が恐れるのは、宗教とか、共同体とか、組織などが、その存続それ自体を自己目的化してしまった場合である。宗教にしろ、共同体にしろ、組織にしろ、その目的は内部ではなく外部にあると私は考える。弱者の救済、富の再分配、商品やサービスの提供等々、本来の目的は常に外部にあり、目的が内部化(自己の存続それ自体)してしまった時、そこには不正や腐敗のはびこる余地が必然的に生じてしまうのではないだろうか?
田中芳樹先生の小説に『タイタニア』がある。宇宙に進出した人類社会の富と権力と武力を牛耳るタイタニアという一族について書かれたスペースオペラである。ここでは詳細は控えるが興味のある方はご一読をお勧めする。タイタニアが自己の存続・強化それ自体を目的化した結果どの様なよどみが生じるのか?末路をたどるのか?初めて読んだのは高校生の頃だが、今、読み返してみても新たにうなずける部分が多々ある。無論これはフィクションに過ぎないが、ある一面の真実を表している。
この話を友人にしてみた所、「だけどそういうのってままある話だぜ。だって天皇制なんてまさにそうじゃん。その存続それ自体が目的化しているいい例じゃん。」との事。私は「いやでも、俺ごときが詮索するのは恐れ多いことだけれど、天皇制は皇族の方々のプライバシーという多大な犠牲の上に成り立っている制度だろ?それって何処かはき違えてねーか?」これに対し友人は「そうだよ!歪んでるよ、その歪みひずみ、お前の言うところの履き違えを受け入れていくことが社会化されるってことじゃないの?」と答えた。私は「う~む」と答えに窮してしまった。元社会科の教師としては情けない話だが仕方ない。
さて話は戻って、私の今行っていることは先の話で言えばライティングと~ingに分類される行為だ。では書くこと自体が目的化されるかというと「それは違う!」と私は言いたい。読んでくださる人がいて、その方に何らかの形で考えるヒントになって欲しい。そうでなければ紙面の日記をつけていればよいのだ。相手があって初めて存続する意義がある。言い換えれば自己の存続それ自体が目的化してはやはり何か大事なことをはき違えてしまうのではないだろうか?この文章をお読みの皆さんはいかが思われますか?そして、それとは別に、究極の問いとして「生きることそれ自体は自己目的化すべき例だと思いますか?それともそこには何らかの目的が必要と思われますか?」コメントいただければ幸いです。私自身の考えはこの場では差し控えたいと思います。今回は真面目な話です。
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