先日、行きつけの美容室で髪を切ってもらっていた所、隣の席に二十歳そこそこの少年が座った。美容師さんとの会話を聞くとは無しに聞いていると、前髪は残したほうがいいとか、後ろはどの辺まで切っていいとか、なかなか、髪型が定まらない。私は「ああ、なるほど。この少年はまだ自分のなりたいイメージが定まらないのだな。俺にもそんな時があったな・・・。」と微笑ましく思った。
私は以前、髪が長かった。それはこのブログにある通りだ。それが、幾たびかの変更を経て今の髪形に至っている。その際に私はこんな髪型がいいという写真を美容師さんに提示した。言葉で、口頭で伝えるのは難しいが、写真を見せれば、なりたいイメージがダイレクトに伝わる。ヴィジュアルって便利なものだ。そして、そのヴィジュアル的イメージがまだその少年には定まっていない。そんなところだろう。
なりたい自分が定まっていない。それはもしかするとヴィジュアル的なものだけでなく、生き方それ自体の話なのかもしれない。隣で話を聞いていて私は半ばそれが羨ましくも、半ばダイジョブか君?と余計なお世話だろうが心配にもなった。
翻って、自分が20そこそこのころ私は自分がなりたい自分をイメージできていただろうか?その頃の私は大学に受かるのがやっとのことで、なりたい自分など到底イメージできていなかった。ただ、ある作家の小説が好きで文学部に行こう!と、それだけは自分で決めた。あとは、ただ、暇な時間と友人と仙台の町があるだけだった。
あれから二十数年。今は、残された時間と、やりたいことと、やるべきことがある程度明確になっている。無論髪型もだ。ああ、もしかしたら、この年になって俺はやっと自分の人生を手に入れたのかもしれない。そんな風に思う。自分の人生を手に入れるとは言い換えれば主体的に生きるということだ。そして主体的に生きるとは、なりたい自分を明確にイメージしそれを実行に移す。そう言う事だ。
このイメージする力が人生の早いうちからはっきりしているほうがいいのか?それともある程度の時間が必要なのか?それはちょっと私にもわからない。早くから主体的に生きた人は直線的な人生を送ることになるだろうし、そうでない人はややもすると曲線的な人生路を歩むことになるかもしれない。そのどちらが良いのか?にわかには解らない。ただ、効率と言う点では前者が、人生の深みと言う点では後者のほうが勝るのではないか?とは思う。
ただ何にしろ、これだけははっきりと言える。自分の人生は自分自身のものだ。他の誰のものでもない。である以上、自分の人生は自分で責任を取らねばならない。だから若い人たちは自分の選択には自分で責任を持たねばならない。そして、その選択肢は万人に開かれたものでなければならない。昨今の若者をめぐる社会事情を顧みてそんな風に思った。
もしこの文章を10代20代の方が読まれていたならば、これだけは伝えたい。
自分の選択には自分で責任をとれよと。その積み重ねが君の人生だと!
偉そうな事を申しました。厳しいようだけど、でも本当その通りだよ!
ではまた!
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