育ち

友人

 育ちがいいという表現がある。何のことやらさっぱりわからなかったが、今になって(42歳になって)ようやくその意味が解った。

 今日、職場の食堂で私が一人で窓に向かって食べていると、ある同僚が向かいに腰かけてくれた。「最近どうですか?」と聞いてくる。思わずうれしくなった。私は障がい者枠で雇用してもらっている身分で、自分で言うのもなんだが仕事はできない。にもかかわらず偉そうにもこんなブログを綴っているものだから、当然というべきか周囲の評判はよろしくない。自分でも承知している。よって私に近づくことはその同僚にとって損にはなっても特にはならない。にもかかわらず向かいに座ってくれた。

 社会人になって常々思うのはいかに多くの人が損得で付き合う人を選んでいるかという事。この相手と懇意にすることが自分にとって損か得かで付き合う人を選ぶ。社会人ってそういうものなんだな。と思っていた。ところが、この同僚にはそういうところが全くない。「育ちが良いっていうのはこういう事を言うんだ。」とその時思った。そのような判断基準で言えば私自身もそうそう育ちが悪くはない。むしろいい方だ。飲み会などで暇そうにしている人がいると積極的に話しかけに行く。そりゃ自分がそうしていたらさみしいからだ。

 では、育ちがいいとは要するに金銭的に余裕がある家庭に育ったという事だろうか?その同僚の家がどうかは知らないが私自身についていえば、そうとは言えない。私のうちは父が地方公務員で母は専業主婦だった。いっつも質素に生活していて、外食などほとんどしたことがない。子供の頃は近所の友達の持っているおもちゃが羨ましくてならなかったし、小・中・高と塾にも行かせてもらえなかった。ただ時間と愛情は十分に注いでもらったと感じている。

 そのことに気づいて「今にして思うと、俺って育ちいいのかもしれない。」と晩飯時に言うと、母は「普通だよ(笑)」と言うし、父は「育ちがどうとか、ああだこうだいうな!」とにらみを利かす。ありがたみと言うものが解るのに、ずいぶんと時間がかかってしまった。そのような両親のありようを見て私自身も、もし家庭を持つなら共働きよりは奥さんには家庭に入ってもらいたいなと思っていたが、どうも年齢的にも障がい者枠という意味合いにおいてもそれは無理そうだ。よっぽど稼ぎのいい奥さんを見つけて私が専業主夫にでもなるなら話は別だが・・・(笑)
 

 この文章を読んで、「育ちが悪くて悪かったな」と思う方も当然いらっしゃると思う。と言うか、いて当然だ。でも、だからこそ、そう思われた方はご自身のお子様に対してお金ではなく愛情と時間をかけてあげて欲しい。託すとはそういう事だと思うから。

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