以前にもこのブログで述べたが『のだめカンタービレ5』(二ノ宮知子)で
「悲しいという気持ちをストレートに悲しいと表現してもあまり響かない。悲しくてもその気持ちを言葉にする事が出来なかったんだ。そんな風に弾いてごらん。」
というくだりがある。番外編(スピンオフ)のこの読み切りでは、主人公の千葉真一が子供から大人へと変わりゆく10前半の頃が描かれている。技術はあっても、”悲しい”という気持ちをそのままに鍵盤に叩きつけるだけの真一。そこで師がアドヴァイスする。そのシーンだ。
このシーンは「美」とは何か?「大人」とは何か?そして「芸術」とは何か?に対する一つの答えを端的に示している。私事で誠に恐縮だが、私もそうだ(笑)。好きでも好きと言えない。悲しくても悲しいと言えない。ムカついてもムカついたと言えない。大人ってそういうもんだと思うし、その方が美しいと思う。それが芸術というものの1つの在り方だとも思う。これまた非常に恐縮で、「こいつは何を言い出すのか?」と思われる方もいらっしゃるだろうが、基本的に私のマインドは労働者のそれではなく、かといって経営者のそれでもなく、職人でもなく、研究者でもなく、政治家のそれではもちろんなく、敢えて、敢えて言うなら芸術家のそれなのだと思う。まあ、でもそうなんだから仕方ない。(開き直り(笑))
だからと言って俺は本質的に芸術家なんだから、美しいものが好きなんだよ、美しく生きるんだよ。と、のたまう程に単純でおめでたい人間では幸か不幸か私は無い。
村上春樹さんがデビュー作『風の歌を聴け』の中で述べておられる。「かつて誰もがタフになろうとした時代があった。僕は思った事の半分しかしゃべらない男になろうとした。でも気付いたら思った事の半分もしゃべれない人間になっていた。」あるいはただ単にそういう事かも知れない。
悲しかったら悲しいと言葉にするべきなのか?そうでないのか?何が正しいのかは未だもって私には解らないが、もしこのブログを読んでいただいている中に10代の方がいたら、成る程それも一つの在り方なのだな。と納得していただければ有り難い。ビスマルクも言っている。「経験から学ぶのと同様かそれ以上に他者の人生から学ぶ事は重要なのだ!」
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