美しすぎる存在

人生に対する姿勢

 私が中学1年の時、クラスに一人の美少女がいた。ただ単に造形が美しいというだけでなく、瞳の奥に見える魂そのものが美しかった。なんでこんな美少女がこんな山間の町に?と一瞬疑ってしまうような、そんな女の子だった。そしてどういうわけか、その子にはよくない噂がつきまとった。そのたびに「あの子のうちは家庭の事情がどうだから。」とかそんなことがささやかれた。今の私なら、「馬鹿臭え。」の一言で片づけられただろうが、そのころの私は未熟なガキでしかなかった。声を合わせて「へえ~。」というのが関の山だった。

 一度クラスメイトの財布からお金が無くなったことがあって、あろうことかその子に疑いの目が向けられた。かわいそうに目を赤くして泣いていたのを覚えている。私は見ている事しかできなかった。結局あとになって他のクラスの男子がやったことが判明したのだが・・・。今にして思うと皆怖かったのだと思う。その子の美しさや高貴さが。彼女を貶め排除することでしか、自分たちの立ち位置を守れなかったのだろう。無視するには彼女の存在は美しすぎたのだ。

 その後クラスは別々になり、彼女は不登校気味になったらしい。「らしい」というのは、私自身いじめにあってそれどころではなくなってしまったからだ。そんなわけで最後の一年を除いて私はあまり中学というものにいい思い出がない。

 1つ分かったのは「美しすぎる存在」というのは周りの人を不安にさせるという事。存在そのものが美しい人が、この薄汚れた世界で生きていくためには、くだらないジョークの一つも言えないとだめなのだ。

 さて、話は映るが、「おっさんぽい中学生か?中学生っぽいおっさんか?」と問われれば、どちらかというと後者に近い私としては用心せざるを得ない。本来しがないおっさんに過ぎないはずの私にも変な噂がささやかれるのを直接間接に感じ取れるからだ。「俺の存在ってそんなに美しかったっけ?」と鏡を見てみると、そこには40代のつかれたおっさんが映るだけだ。皆何を勘違いしているのだろう?やれやれ。

 ただ、鏡は外見を移すだけだ。内面の美しさがこの私に、もし、もしあるのだとすれば、それを映し出すのはほかでもないこの文章なのだ。

 だからと言って執筆をやめるつもりはないし、自分の書く文章を貶めるつもりもない。俺は俺だ。言いたい奴には言わせておけばいい。どうやら外見はともかく私の内面にはそれなりの「美」が宿るらしい・・・。

 そんなわけで「綺麗なものなんて目の毒だよ。」と思われる方は、どうぞ、読むのをお控えください。「美しさ」に耐えうる方のみにお読みいただければ結構なのです。

 最後に、先の「美しすぎた彼女」のお幸せを心よりお祈り申し上げます。

2023/7/2 長谷川 連

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