先日、中田敦彦さんのyoutube大学でドストエフスキイの「罪と罰」を見た。また、太宰治の「人間失格」も見た。「罪と罰」は新潮社の文庫版を何度も読みかけて挫折しているがマンガになっているものは読んだ。太宰治の「人間失格」は高校の時、小説を読んだ。太宰は「人間失格」の中で「罪と罰」に触れている。以下の箇所だ。初めて読んだ時からずっと気になっている。
~罪と罰。ドストイエフスキイ。ちらとそれが、頭脳の片隅をかすめて通り、はっと思いました。もしも、あのドスト氏が、罪と罰をシノニム(類義語)と考えず、アントニム(対義語)として置き並べたものとしたら? 罪と罰、絶対に相通ぜざるもの、氷炭相容あいいれざるもの。罪と罰をアントとして考えたドストの青みどろ、腐った池、乱麻の奥底の、……ああ、わかりかけた、いや、まだ、……などと頭脳に走馬燈がくるくる廻っていた時に、~
もしドストエフスキイが「罪」と「罰」を類義語(シノニム)と考えたのならば納得がいく。「罪」を贖うもの・許すものとして「罰」があると考えるからだ。つまりすべての「罰」の先には「救い」があるとする考え方だ。これなら文字通り救われる。だが、ここで太宰治は主人公の口を借りて次のように述べている。「もしも、あのドスト氏が、罪と罰をシノニム(類義語)と考えず、アントニム(対義語)として置き並べたものとしたら?」
これはどういう事か?ここでドストエフスキイ自身の体験をもとに考えてみたい。ドストエフスキイは常に社会的弱者の苦境と社会正義について考えていて、ある空想的社会主義サークルに入る。これは過激な革命集団ではなく、当時、禁書になっていた思想書を読む人々の集まりだった。だが、1849年、帝政の転覆を企んだ“かど”でドストエフスキイらは逮捕され、死刑を宣告される。他の死刑囚と3人一組でならばされ、ドストエフスキイは2番目の組にいた。兵士たちが銃を構えて初めの3人に狙いをつけたその時、皇帝の恩赦が下りた。すべてはあらかじめ仕組まれたものだったのだ。彼らはシベリア送りとなり、ドストエフスキイはそこで4年間極悪の環境で重労働に耐えた。その際の体験をもとに書かれたのが『死の家の記録』である。ドストエフスキイは『死の家の記録』の中で、究極の拷問について語っている。シベリアに流刑されたドストエフスキイは、半日かけて穴を掘り、半日かけてその穴を埋めるという強制労働をひたすらやらされた。何の意味もない単純作業を延々とやらされると、やがて人は精神に異常をきたし、発狂して死んでしまうという。そのような「罰」が「贖い」「許し」になるとドストエフスキイは考えられただろうか?否、「そのような罰の行く先に救いなどあろうはずがない。」そうドストエフスキイは考えたのではなかろうか?「罰」の先に「救い」はなく、そこにはただ「荒廃」と「崩壊」があるだけだと・・・。つまり「罰」とは「罪」を「贖う」ものでも「許す」ものでもないと。それこそ「罪と罰」のストーリーとは裏腹に。それを指して太宰は「罪と罰、絶対に相通ぜざるもの、氷炭相容あいいれざるもの。罪と罰をアントとして考えたドストの青みどろ、腐った池、乱麻の奥底の、……ああ、わかりかけた」と述べているのではないだろうか?そのように理解するならドストエフスキイとは非常にアイロニカルな、シニカルな、それこそ、太宰の言うように「青みどろ」と言う言葉のよく似合う人物だったのかもしれない。しかし、その後に太宰は続けている「いや、まだ、……などと頭脳に走馬燈がくるくる廻っていた・・・」「いや、まだ」以降、どの様に太宰が考えていたのか解らない。ただ「罪と罰」を知れば、そう簡単にドストエフスキイの人格を把握したような気分になれないのは確かだ。おそらくドストエフスキイ自身にも矛盾した内面が存在したのではないか?あのスビドリガイノフのように。それを最後の「いや、まだ」で太宰は表現したかったのかもしれない。人間とはそんなに単純なものではない。
私は文学者でも研究者でもないので難しい事は解りません。ただ、初めて『人間失格』を読んだ時からずっと気になっていた箇所がほんの少しわかった様な気がしたので文章にしてみました。もっと詳しく解る方、自分はこう考えるという方、いらっしゃいましたらコメントお願いします。ドストエフスキイが罪と罰をシノニム(類義語)として述べたのだと切に願います。
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