空気の読めない、計算のできない

人生に対する姿勢

 先日中田敦彦さんのyou tube大学で夏目漱石の『坊ちゃん』を扱っていた。生粋の江戸っ子である坊ちゃんも、会津出身の山嵐も、空気の読めない、計算のできない男だった。上手に空気を読んで計算をして、影の権力者である赤シャツやその太鼓持ちである野太鼓に逆らわなければ自分一人の身は安泰だったのに・・・。

 中田さんによれば江戸から明治へと移り行く時代の中、去り行く古いタイプの人間像を江戸っ子である坊ちゃんと会津っぽの山嵐が象徴したのだとか。江戸と会津、双方とも旧幕府側だ。面白いのは二人とも数学の教師である事だ。数学の計算は出来ても人生の計算は出来なかったのかもしれない。いいじゃないか。人生の算盤ばかり弾いているような奴が私は何より嫌いだ。
 

 その意味ではずいぶん舞台は異なるが、ジョルダーノ・ブルーノと言う人物が面白い。歴史上、「宇宙は無限だ」と公言した初めての人で、結局その発言がもとで火あぶりに処せられてしまう。「裁かれている私よりも、裁いているあなた方の方が、真理の前におののいているではないか?」と言う言葉があまりにも有名だ。

 その他にもソクラテス、イエス、ルター、吉田松陰、私が好きな歴史上の人物は皆、空気を読めない。計算ができない。その状況でそうするのか?と聞き返したくなるような選択をする。でも、だからこそ記憶に残るのではないか?愛されるのではないか?私も記録よりも記憶に残るようなそんな男になりたい。

 ところで今あげた人物は皆男性だ。私の経験から言えば女性社会とは計算といかに空気を読むかで成り立っている。それでいいと思う。自らとその授かる次の命を守るのが女性の役割で、理想に殉ずるとか、真理を追究するというのはどうやら男性の役割らしい。そう考えると計算ばかりしている男性が目に付くというのは男性が女性化しているという事なのか?と思ったりもする。

 何にせよ、「空気の読めない、計算のできない男」いいじゃないか。そんな男に私もなりたい!

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