程よい距離感

人生に対する姿勢

 前回のこのブログで、「自分のために生きるのか?自分以外の誰かのために生きるのか?どちらがより良い生き方か?」というテーマで論じたのだが、誤解を招きそうなので少し訂正をしておく。前回の本文では「人と人との間に生きるのが人間であるならば、自分のためだけに生きるのはやはり少し寂しい気がする。」と結論付けたわけだが、もう少し書き加えると、誰かを愛するとは自分以上に大切にしたいという気持ちに他ならないだろうし、そういう対象が現れて初めて人は家族を持とうと意識するのだろう。言い換えれば、自分以上に大切な人が現れて初めて人は結婚を意識するのだし、そうして人類は家族を形成し、子孫を残してきたのだろう。私だってそのくらいはわかる。人は自分以上に大切な誰かのために生きるのだ。その方が人類学的に見ても“良い生き方”だと言える。そんなことは言われなくとも分かっている。ただ1つ、ただ1つ断っておきたい。

 ある事実がある。
その事実をどう受け止めるか?という問題がある。
そしてその受け止めた事実をどう表現するか?という問題がある。
つまり、ある事実をどう受け止め、どう表現するか、
そこには2段階にわたってバイアスが加わるのだ。

 簡単に言うと、私がこの一連の文章で述べてきたことが、まんま私の本心を如実に表していると思われても困るという事だ。そこには照れもあるし、針小棒大とはいかぬまでも、少しは誇張もある。話半分、もしくはその逆の場合もある。その辺を考慮して自分なりに読み解いてほしいという事だ。ついでに言うと私は偽善者には死んでもなりたくはないが、偽悪者ならなってもいいかなと思っている。今までの人生経験上、偽悪者と呼んでいい人物を幾人か見て来たが、決して悪い奴らではなかった。むしろいい奴らだった。こう言ったニュアンスを一文で表すと
「善人は早死にするが早死にしたからと言って善人であるとは限らない。」
という事になる。そんなことを頭の片隅に置きながら私こと、長谷川漣の文章を読んでほしい。
要するに何が言いたいかというと、歯が浮くような文章を書くのは今回限りだという事。そもそもは歯が浮くような文章なんて粋じゃない。私らしくもない。

 そんなわけで、私の文章をお読みいただいている方々には程よい距離感を保って接していただければ幸いです。あまりに肉薄しすぎると見えないほうが良い皴やシミまで目についてしまいますよ(笑)
 あしからず。

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