その昔、私が勤めた女子高にはびっくりするくらいの美少女がいた。パンフレットの表紙を飾るほどの逸材で、単にかわいいなだけでなく、異性としてのアピールが凄く上手な子だった。ぴとっと体を寄せて来たり、さり気なく手を握ってきたりと、私などはガードを固めていたにもかかわらず心がグラグラと音を立てて?揺れたのを憶えている(笑)。でもそうこうしているうちに、あれっ?なんか違うぞ?と気づいた。その子は私自身を好きだったのではなく、(自分で言うのは恥ずかしいが)みんなの人気者を好きだったのだ。もし、私よりもっと人気のある新人でも赴任してきたなら、きっとすぐにそちらになびいたことだろう。それもその子なりの“好き”だったのかもしれないが・・・。その後、案の定、別の高校の男子高生とつきあっていたのが解って、私はがっかりしたような、ほっとしたような不思議な気分だった。彼女の真心はそこには無かった。その後、心なしか彼女の周りからは人が離れていった。
これに対し、彼女ほどの器量よしではなかったものの、いつも私にジョークをぶつけてきてくれる子がいた。ジョークの形こそとってはいるものの、そこには常に励ましや、応援があった。そこには真心があったのだ。だからこそ、その子を失って私はずっと後悔したし、今でも鮮明にその子の事を憶えている。真心って尊いものなのだ。
私にとっては残念なことだが、その子は幸せに結婚して海辺の街で暮らしている。彼女との事はそういう形で終わったが、それとは別に私には仙台にいた学生時代からずっと続く同性の友人関係が複数ある。今でもチャットをしたり、このブログを読んでもらったり、サクランボを送ってもらったりと、それぞれに繋がりがある。私の財産だ。
ふと思ったのだが、彼らが未だに私に良くしてくれるのは、仙台にいた当時の私が彼らに真心をもって接してきたからなのだ。真心をもって接してきたから真心をもって返してくれる。付き合いってそういうものだ。
でも稀にその真心を利用したり、もてあそんだりする輩がいるのも事実だ。先にあげた美人の彼女にもそういう面があったのかもしれない。だからと言うべきか、彼女からは人が離れていった。一時的にお金や権勢でもって人が集まることはあるかもしれないが、心無い付き合いからは人が離れていく。そういう事を私が学んだのは20代も後半の事だった。
学童に勤めてよかったと思うのは、どんなに口が悪かろうと、態度が悪かろうとそこに真心がある付き合いができるからだ。彼・彼女らには下手な媚やへつらいはない。まさに「巧言令色少なし仁」なのだ。
さて、このブログをお読みの皆さんは「真心」込めた付き合いできているだろうか?私は幸いなことに学童の子供たちと真心のある付き合いが出来ているのではないか?と自分では思っている。もっともみんなが何というかは解らないが・・・(笑)。でも何にしても、みんなありがとね。
コメント