『人生の終わりを思い描くこと、具体的には自分の葬式の参列者と弔辞をイメージする・・・。』
中田敦彦さんのyoutube大学で(『7つの習慣』スティーブン・R・コヴィー)を扱っていた。この中田敦彦先生ならぬコヴィー先生曰く
「成功した場面、例えばスポーツ選手がよくやるように、大会で優勝した場面を思い描く(イメージする)だけではダメなんだと。本当の成功とは人生全般を貫いてのものなのだと。だからこそ自らの人生の終わり(葬式の参加者と弔辞)をイメージする必要があるのだ」
と。私も僭越ながら、自分がエッセイのコンテストで賞をとった場面を思い浮かべては「感謝の言葉はまず誰に伝えよう?まずは名前を頂いた恩師に、それから前職で大変お世話になったあの方に」とかそんな妄想?ばかりしていた。必ずしも賞をとることが目的ではないのだが、何らかの賞をとれれば世話になった方々へ感謝の気持ちをカタチ?コトバ?にできるかなあと、そればかり考えていた。でもそれだけではダメみたいだ。自分の葬式をイメージせねば・・・。昔は「墓も葬式もいらない。死んだらそれまでだ。」と考えていたが、そういうものでもないらしい。それでは親族に迷惑がかかるし、役所的にもそういうわけにはいかないらしい。そこで真面目に考えるかというと
「さて、俺の葬式ともなるとやっぱ国葬?(笑)」
などと冗談が先に出てくるのが私の悪い癖ではある。真面目な話、参列者から「この人の文章は面白かった。」「少し気が楽になった。」と思ってもらえれば幸いだ。では弔辞は・・・。と考えていたら赤塚不二夫さんの葬儀を思い出した。この葬儀ではでタモリさんが本名の森田一義で「白紙」の弔辞を読んだ。タモリさんの真意は解らない。でも、国会答弁でも何でもそうだが専門家がつくった文面の字面だけを追うなんて心がこもらないこと甚だしい。心の中のものを絞り出すのが死者に対する礼儀ではなかろうか。「白紙」の弔辞、悪くない。私の葬式では是非「白紙」の弔辞を読んでもらおう。冒頭には「故人は心の中のものを正直に率直に述べた人でした。その姿勢に敬意を表してこの「白紙」の弔辞を読ませていただきます。」とでも添えてもらって。
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