理性と感情と

家族

 先日、公共の温泉施設に両親を連れて行った。その際、ふろ上がりに親父が施設に備え付けの図書コーナーで『マンガで読むギリシャ神話』を若干恥ずかしそうに読んでいた。≪若干恥ずかしそうに≫と言うのは、うちの父は常々私に対して「マンガなんて読んでないで本を読め!」と繰り返し叱責してきたためだと思う。戦中生まれの親父は、【マンガ=くだらないもの・幼稚なもの】という図式が頭の中で出来上がっていたのだろう。いつも難しそうな本を、難しそうな顔をして読んでいた。

 それに対し、私は「マンガがくだらないかどうかは読んでから判断すればいい。そもそも、難しいことを難しく書くのはナンセンスだよ。本当にきちんと理解している人は、難しいことを解りやすくかみ砕いて伝えることができる。言い換えると抽象的な概念を具体的に表現できてこそ、本物だよ!マンガにはそれができる。」と、理でもって説いてきた。でも父は一向にそれを受け入れなかった。結果父と子の溝はなかなか埋まらなかったのだが・・・。

 その父がマンガを読んでいる。私は半ば嬉しく、また半ば尊敬の念をもって父を眺めた。80を超えた人間が自分の誤りを認め、その方針を転換するというのは、なかなかにできることではない。その率直さが私にはまぶしかった。何故、今になって翻意することになったのかはわからない。何かしらの変化が彼の中にあったのだろうか?なんにせよ、親父にとって、長谷川家の本棚にとって大きな一歩だ。

 親父は田舎で物理の教師をしていた。だからと言うわけではないが、私は理(ことわり)でもって説いてきたつもりだった。それがこのように時間がかかってしまったのは物の理(物理)など所詮、人間の感情にはかなわないという事か?

 人がほかの何よりも理によって動く生き物なら、どれだけ時間と労力が省かれるだろう?なぜもっと人間は理性的になれないのか?そういう、ひょっとすると驕り高ぶった?思いが私にはある。同時に父がマンガを読んだことに対して「嬉しさ」だとか「尊敬の念」だとか、そういった感情を抱く自分がいるのも事実だ。

 理性か?感情か?

 なかなかに人間と言うのは難しい。でも、だからこそ理解する面白みがあるというものだ。そんなわけで、今後も人間をテーマに文章を書いていこうと思う。

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