点ではないのだから

教育

 学校であれ、学童であれ、塾であれ、教育の現場に従事したことのある人間なら必ず聞いたことが、または用いたことがある表現に、【いい児童】【いい生徒】がある。それは具体的には≪まじめで従順な≫と言う意味に等しい。言葉を補うならば、それはつまり≪教師にとって都合のいい児童・生徒≫と言う意味だ。無論その逆に、教師にとって手のかかる、つまり都合の悪い児童・生徒もいるわけで、そちらは概ね≪問題児≫と呼ばれる。年度変わりのクラス替えの際、この≪問題児≫を誰が受け持つかで教師の側は神経をすり減らすのだが・・・。

 かくいう私も教師をしていた時はこういった≪問題児≫を忌避していた。高校生にもなって、授業を受ける気がない、それだけならまだしも、授業を積極的に?妨害するような生徒をどうして学校側が受け入れる必要があろうか?そのような者はさっさと退学にしてしまえばよい。学校は勉強を教えるところで、いわゆる躾(しつけ)は家庭で身に着けるものだ。というのが私の持論だった。この持論を推し進めれば、しつけの行き届いている児童・生徒ほど、その保護者が教育に関心を持つ場合が多く、必然的にそういった家庭の子弟は進学校に進む。(無論、例外はある)よって私自身、進学校で教鞭をとることを望んだのだが・・・。

 いわゆる問題児に出会うのは統計的・確率的に仕方のない事だ。当時の私はそう思っていた。進学校に行けば統計的・確率的にそれが減るだろうと。おそらく私の見立ては間違ってはいない。間違ってはいないが、若干機械的だった。もしくは人間味に欠けていた。当時の私は生徒を≪記号≫と見なしていたのだと思う。彼らは血の通った人間だった。

 今日、泥ノ田犬彦先生の(『君と宇宙を歩くために』講談社 2023)を読んでそう思った。
詳しくは実際に手に取って読んでいただけるとありがたい。

 劇中、天文部の先生が
「一体どのくらいの人が、【点だと思っていたものが、点ではなかった】と気が付けるでしょう。」
と述べている。このマンガ第1巻のハイライトだ。

 もしもう一度、教鞭をとる機会があるなら、今度は進学校などとこだわらずともよい。テストや受験のことなど気にせず、自分で考え、調べ、班を作って競わせ、もっと生徒が目を輝かせるような面白い授業をやってみたい。もっと生徒が自ら考える自由な世界史の授業をやってみたいと思う。何故なら、月並みな締めくくり方で恐縮だが、「生徒は点ではないのだから。」

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