先日友人とお茶をした際に安部公房の『砂の女』が話題に上った。(『砂の女』のあらすじを知りたい方はウィキペディア等をご参照ください。ここでは割愛します)
「あれって怖い小説だよ。何が怖いって、最後に逃げ出せるのに元の場所へ帰っていく。そこが一番怖いよ。」
と、友人が言う。私も
「確かに。組織や集団の存続のためには個人の意思や尊厳なんて軽く無視されてしまう。その一例だ。あの小説の主人公の男は、村人たちから、言い方は悪いけど「女」をあてがわれて、結局最後はそこに安住してしまう。何だか、ペットのオスにメスをあてがうような感覚だ。俺だったら絶対最後に逃げ出すけどな。」
と答えた。
「でも、当人がそれで良ければいいんじゃない・・・。」
と、ここで私と友人の意見は分かれた。このあたりが妻子を持つ友人と、いまだに独り身の私との見解の相違というべきか・・・。
「うん、話はずれるけど俺がディズニーランドに馴染めないのもその辺りと関係しているのかも。どんなに居心地よくても、その幸せがお仕着せられたものである以上、満足できない。ディズニーランドの場合はお金を払って得た幸せ、つまりまがい物だと感じてしまう。だから馴染めない。俺は結構、我が強いのかもしれない。」
と私が告げると友人は
「我が強い、というよりは貴方はある意味、潔癖症なんじゃないか?精神的潔癖症。要は中二病。」
と言う。
「潔癖症か・・・。それは一理あるかもしれない。」
潔癖症だか何だか知らないが、それが私の長所であり、かつ限界でもあるのだろう。
そう言えば昔、中谷美紀さんの歌う『mind circus』にこんな歌詞があった。
~偽りだらけのこの世界で愛をまだ信じてる。少年らしさは傷口だけど君のナイフさ~
私はいい年をしたオッサンだし、中二病などでは決してない。ただ、友人の言いたい事は解る気がする。そして中谷美紀さんは確かに素敵だ。彼女がそう歌うのであればそれはそれでいいかもしれない。
そう結論が出たところで、今年第1回目の茶会は終わった。
さて、この文章をお読みの皆さまが『砂の女』の主人公の男だったら最後逃げ出すだろうか?それとも安住するだろうか?「つくられた幸せ」に満足できるだろうか?それとも例え、それがいばらの道でも自分の手で「本物の幸せ」をつかみ取るだろうか?私?私はどうやら後者の様だ。そして「本物の幸せ」をつかみ取れる気配は・・・一向にない(笑)。
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