母親の意義

家族

 先日、『教養の意味』と言う文章で母の事をこっぴどくこき下ろした。あとになって読み返して、ずいぶん苛烈な表現を用いたなと反省した。もっとも、表現こそ苛烈だったが、言っている内容自体は何ら間違ってはい。そう思っている。

 今日、母と新しい勤め先の事で話をした。母が「今度は小中学生相手でよかったね。」と言う。母の言いたいことが良く分る。「大学受験生相手の授業ともなると予習が大変だ。小中学生相手の授業なら予習が楽でしょう。良かったね。」と。そう母は言いたいのだ。それは違うと私は思う。同時にこの人はいつになったら俺と言う人格を理解するのだろうか?とも思う。

 確かに教材自体の難易度は小中学生相手のほうが簡単だ。でも、それだけに、こちらから発問する内容、そのタイミング、与えるべき指示、等々より子供たちの目線に立って授業を作らねばならない。決して楽な仕事ではない。それとは別に大学受験用の現代国語のテキストなどを読んでいると、その思考の深さ、切り口、等々私自身にとっても発見が多々ある。その意味で、どっちが楽と言う事はないが、私自身にとってより面白いのは大学受験用のテキストだ。と答えると母は「ふーんそんなもんかねえ。」と答えた。

 私は続けて「俺にとって人生とは挑戦なんだよ。時にリスクをとってでもするべき挑戦なんだよ。貴方にとってのそれが保ち守る事であるように。つまり、これは価値観と価値観の相違だ。自分の価値観をそれとなく押し付けるのは良くないんだよ。」

 もう、70代半ばの母はいくら言ってもこのことを理解しようとしない。いくら自分がおなかを痛めて産んだ子供でも、そこには自我が生れ、自分とは異なる人格が宿るということを。母は母で私の事を愛しているのだが、その愛は若干と言うかかなり、独りよがりなのだ。大岡越前の裁きではないが、母の愛情はどちらかと言うと、子供の手をいつまでも離さなかった方のそれなのかもしれない。その愛は純粋ではあるが、大きな愛とは言えない。

 と、ここまで述べてきたが、私が精神を病んだ際、誰よりもその回復に尽力してくれたのも間違いなく母だ。その母をこんな風にこき下ろすなんて、情が薄いのは私のほうかもしれない。

 まあ、何はともあれ、世の中のすべてのお母さんに、もしくはこれからお母さんになるすべての女性へ。

 お子さん、特に男の子はいずれ、皆さんのもとを離れてゆきます。その時どう立ち振る舞えるかが母親業の最後の最後の見せ場なのかもしれません!ぜひ、いい笑顔で送り出してあげてください。そして、万一、世間の荒波にもまれてクタクタになって帰って来た時には何事もなかったかのように迎え入れてあげてください。それができるのが母親って奴なのかなぁとも思うのです。(母親って大変ですね。)

ではまた!

 

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