次世代への贈り物

教育

 先日読んだ本の中に次のような文章があった。曰く

人が悲しんでいる時に寄り添える友達より、その人が喜んでいる時に嫉妬せず一緒になって喜んであげられる友達こそ本物の友達だ。

 これはちょっと読み過ごせない文章だと思った。何故なら、寄り添うというフレーズをよく耳にするが、それよりも一緒になって喜ぶことのほうが難しいのでは・・・?と思われる節が今までの人生にも多々あったからだ。一方で、私は自分に合格点を出せた気分になった。私事で恐縮だが、私は少なくとも友達と思う相手に対して、その成功をやっかんだことは無かったと記憶しているし、自信をもってとは言えないまでも、一緒になって喜んできたつもりだからだ。

 どうやら、この文章からもわかる通り、それは結構難しい事だったらしい。人を泣かせることよりも笑わせることのほうが難しいのと同じ意味で・・・。その難しい事がおおむね出来ていたのでは?と考えると、これと言った取り柄などない私としては、ちょっといい気分だ。

 で、また何故、そんな難しい事を私ごときが出来たのか?と考えてみたのだが「そりゃ、やっぱり自分を好きだからだろう」と言う結論に落ち着いた。ちょっとやそっとの事では自分に対する自信はぐらつかないのだ。つまり私は自己肯定感が高いらしい。では、この自己肯定感とやらはどこから来たのか?と考えてみたのだが・・・やはりそれは両親や母方の祖父からの愛情に他ならないな。と再確認した。特に母方の祖父は私の事を溺愛してくれた。「大器は晩成するって言うからな!」と言う祖父の言葉が今でも耳に残っている。

 ただ、勘違いしてほしくはないのだが、愛するという行為は何でも買って与えればよいという事では全くない。また、やみくもに褒めればいいというものでもない。時には叱らねばならないし、そのためには時間も労力も必要だ。この時間と労力ばかりは他で替えが効かないから難しい・・・。

 さて、話は飛躍するが、我々が次の世代に何か残せるとしたら、平和に勝るものはない。そしてその平和を脅かすのは、いつだって【嫉妬心】に他ならないのでは?と思う。だとすれば、下手な嫉妬心など抱かぬくらい誰かから愛された記憶と言うものが必要なのではないだろうか。特に指導者と言われる人々には・・・。

 先に述べたように、ここで言う【愛する】とは褒めることであり、叱ることだ。それは生身のコミュニケーションをとる事であり、生身のコミュニケーションをとるのはいつだって疲れるし時間がかかるのだ。でも、それこそが、やはり次の世代への最高の贈り物なのだろう。つまり愛情こそが最高の贈り物なのだ。

 そんなわけで、貴方は友人の成功や出世を一緒になって喜んであげられますか?もしそれが難しいなら、次の世代にはそれができるように、精一杯愛情を注いであげてください。それが我々の出来る最高の贈り物だと思うし、気の遠くなるような話ではありますが、ゆくゆくは平和に繋がるのでは?と、そんな風に思うのです。

ではまた!

コメント

タイトルとURLをコピーしました