年末の行事として、男三人でカラオケに行った。友人の一人は私と同い年、もう一人は10歳若い。同い年の友人は他の二人が入れる楽曲を「やれ通俗的だ。」「やれ商業的だ。」と批判する。自分はというとピストルズやブランキージェットシティーを歌って悦に入っている。そのうちに5時間も歌っているとさすがに歌える局が無くなってきた。私が「貴方は通俗的、通俗的というがこれならどうだ(笑)」とあえてHジャングルウィズTの「wou wow tonight~時には起こせよ ムーブメント~」を選曲した。するとその友人は「こういう選曲するやつは極刑・釜茹で!」と大いに憤慨していた。(小室哲哉さんごめんなさい)若い友人は「選曲するたびにうんちくたれられたり、文句言われたり歌いづらくて仕方ないっすよ!」と苦笑いしていた。
若い友人宅に一晩泊めてもらって、帰り道の車の中で、高尚と低俗というテーマについて考えた。
「貴方は通俗的・通俗的と言って馬鹿にするが、そこまで馬鹿にするってのは、ある意味こだわりがあるってことじゃないだろうか?どうでもよければ、単に無視するのが一番いいわけだし・・・。その意味で貴方は通俗性と言うモノを実は愛しているのではないか?」と踏み込むと
「確かに・・・。ゾンビ映画やスプラッター映画でも俺は気持ち悪い場面、スプラッターな場面ばかりを繰り返し見る。低俗・通俗あってこその高尚な文化なんだよ。」
と、めずらしく兜を脱いだ。
「そこ行くと、坂本九の『上を向いて歩こう』なんかは凄いね。いわゆる通俗性と高い芸術性を兼ね備えている。ホンモノってこうなのかもね。」
私は例によって無難にまとめた。
ただ、この友人でも素直に人を褒める事もある。今回、私が気志團の『ワンナイト・カーニバル』を歌うと彼は「貴方は本気で尾崎を歌うとうまいかもね。」とめずらしく私を褒めてくれた。何だか悪くない気分だった。ただ私の美意識として、どんなに真剣でも、というか真剣だからこそ本心は常に韜晦させておきたい。たとえカラオケでも尾崎を歌うほどに裸にはなれないというのが私の弱点でもある。どうやら美意識と自意識はかぶるところが多いらしい。
1つ気づいたのだが、その楽曲に込められた精神性と歌う当人の精神性が合致した時、それは聞く人の心に響く歌になる。尾崎の精神性と私の精神性に重なるところがあるとするならば、こんなに光栄なことはない。友人のそれは私にとって本年度最大級の誉め言葉だった。
年内の投稿はこれが最後になります。本年もお読みいただいた皆様、どうも有難うございました。来年もよろしくお願いします。では、良いお年をm(__)m
長谷川 漣
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