「タワマンってさ、ダストシューターとかあるのかな?ほら、小学校の時あったじゃん!3階のゴミを廊下の壁面についた穴に落とすとそれが1階まで落ちていくやつ。」
「そんなの無いんじゃないっすか?」
「だってそれ無かったら大変だろ?最上階に住んでいる人はゴミ捨てどうすんだよ?」
「そりゃ、毎朝1階まで捨てに行くんすよ。エレベーターで!」
「そんなの面倒じゃん!最上階だよ?」
「そんなの私に聞かれたって知りませんよ!」
「なんでそこまでしてタワマンに住みたいの?タワマンの最上階に住めるだけのお金あったら、普通に地方都市に住んで、配当金とかで暮らせんじゃね?」
「だから私に聞かれたって知りませんよ!それがステイタスって奴なんじゃないんですか?」
上記は先日友人のK君と交わした会話だ。そりゃ、タワマンの最上階は日当たりと眺めは最高だろう。あと風通しも。でも、ゴミ捨ての面倒くささばかりはどうにもならないのでは?と私などは思う。ちなみに私は2階の自分の部屋のゴミを1階に持ってくるのすら面倒でならない。
そこまでしてステイタスって奴にこだわるのは何故なのだろう?私自身はステイタスってものにあまり興味がない。と言うかどうでもいい。綺麗なものを見たいし、触れたいとも思う。おいしいものも食べたい。でも、それってタワマンに住むこととは微妙に異なるのでは?と思う。それとも、現在私が乗っている軽自動車をレクサスにでも乗り換えたら違う景色が見られるのだろうか?乗ったことが無いのでちょっと解らない。ただ、私の車は音響にだけはお金をかけた。いい音は何物にも代えがたいからだ。
逆に何故、俺はいわゆるステイタスに興味が無いのかな?と考えてみたのだが、答えは結構簡単で、要は没頭できるものがあるからだ。サッカーをやっていた時はサッカーに夢中だったし、スキーもまた然り。受験勉強に一生懸命だったときは受験勉強に没頭していた。今はもちろんこのブログを綴ることに没頭している。我を忘れて熱中できる何かがあれば、人はあまりステイタスってものにはこだわらなくなるのだ。これは自身の経験からも、過去の読書からも言えることだ。
『課長 島耕作』(弘兼憲史 講談社)の主人公・島耕作とその上司・中沢部長も出世やステイタスに興味がない。ただ仕事が好きなだけの一匹狼だ。このあたりの弘兼先生の人間観察力は鋭い。
多分、好きなもの、没頭できるものがあるってことは、とても幸せなことなのだ。何故なら、ステイタスから自由になれるから。その意味で職人や芸術家はとても幸せだ。没頭すること自体が仕事のようなものだからだ。
逆に、世の中にはタワマンの最上階じゃないと気が済まない。そういう人がいるのもまた事実だ。正直あまり友達にはなれそうもない。
もっとも私にだって劣等感にさいなまれた時期があった。私が18まで暮らした古い古い家はトイレが外にあって、電気・ガス・上水道はともかく下水道が通っていなかった。私はそのことがいつも惨めで仕方なかった。その頃の私だったらタワマンのしかも最上階に住みたい!そういう野望を持ったかもしれない。今では、電気・ガス・上下水道どれも整っている。おまけにネット環境とクーラーまである。これ以上言うことは無い。
そんなわけで、皆さんには没頭できるものがありますか?夢中になれるものがあるって事はとても幸せな事です。たとえそれが仕事に直結しなくても、私のこのブログのように赤字続きだとしても、やっぱりそれは幸せな事なのです。自分にはそれがある!という人は是非大切にしてください!まだないって人は是非それを見つけ出してください。そして没頭してください!きっと皆さんの人生を生き抜く上で最強の武器になる事と思います。(もっとも武器と言う表現は人生を戦いと見立てているので、あまり好きではないのですが・・・。解りやすいのでこのままにしておきます。)
ではまた!
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