先日、NHK のSONGSで椎名林檎さんが「愛は知性に宿る」とおっしゃっていた。どういう事だろうと考えていたが、なんとなく解った気がする。
ここで「知性」≒「理性」としてみる。(「知性」と「理性」の言葉の厳密な意味合いの違いについて今は言及を避けます)すると椎名さんの言葉は「愛は知性に宿る」≒「愛は理性に由来する」となる。では「理性」に対して「感情」に由来するのは何か?答えは簡単で「恋」である。つまり、「恋は感情に由来する」となる。理性に由来するのが「愛」で、感情に由来するのが「恋」なのだから、「愛」は「恋」よりもだいぶ大人という事になる。理性に基づいて行動するのが大人で、感情に基づいて行動するのが子供とするならば、であるが。
さて、村上春樹さんの代表作「ノルウェイの森」に次のようなフレーズがある。
「直子は僕の事を愛してすらいなかった。」
このフレーズを省略せずに表すなら、
「直子は僕に恋していなかった。のみならず僕の事を愛してすらいなかった。」
となる。このフレーズからわかるのは「恋」は「愛」より上位に位置するという事だ。先程までの考察によれば「愛」とは理性に由来し、感情に由来する「恋」よりも大人なわけであるから、「愛」の方がより上位に位置するのでは?という疑問が浮かぶ。にもかかわらず、村上春樹さんの表現では「恋」は「愛」よりも上位に位置している。どうしたことか?思うに村上さんの表現ではその“圧”を根拠にしているのではないか?「恋」の方が感情に由来する分より“圧”の強いものなのだ。「恋」と「愛」の関係は「同情」と「寛容」という言葉の関係に似ているかもしれない。「同情」の方がその“圧”は強いが、「寛容」の方が理性に基づいている。「恋」と「愛」とはそのような関係にあると思われる。
ここで話は飛躍するが、その意味において「愛」を説いたイエスという人は「理性」の人だったのだろうとしみじみ思う。そして彼が「理性」の人だったのは彼の出生に起因しているのではないか、と考えるようになって久しい。
イエスの母はマリア。周知のとおりいわゆる聖母マリアだ。父親はヨセフ。この人は大工。父ヨセフ、母マリア、ですめば簡単だが、これが意外とややこしい。のちにキリスト教の教義が確立する中で、マリアは処女のままで身ごもってイエスが生まれたということになる。現実にはそんなことはあり得ない。一体この話は何を意味しているのか。
どうやら、こういうことらしい。マリアとヨセフは婚約者同士だった。ところが婚約中にマリアのお腹がどんどん大きくなる。誰かと何かがあったと思われる。どんな事情があったかはわからない。ヨセフとしては身に覚えがない。不埒な女だ、と婚約破棄をしても誰にも非難されない。婚約破棄するのが普通だと思う。聖書によれば、やはりヨセフは悩んだらしい。しかし、結局そんなマリアを受け入れて結婚した。そして、生まれたのがイエス。マリアとヨセフはその後何人も子供をつくっている。イエスには、弟妹が何人かいた。そして、イエスの出生の事情というのは村のみんなが知っていた。
のちにイエスが布教活動をはじめて、自分の故郷の近くでも説法をする。その時、同郷の者達が来ていてイエスを野次る。その野次の言葉が「あれは、マリアの子イエスじゃないか!」。誰々の子誰々というのが当時人を呼ぶときの一般的な言い方だった。普通は父親の名に続けて本人の名を呼ぶ。だから、イエスなら「ヨセフの子イエス」と呼ぶべきだ。そこを「マリアの子イエス」ということは「お前の母ちゃんはマリアだが親父は誰かわからんじゃないか」「不義の子」と言う意味なのだ。
だから、かれの出生は秘密でもなんでもなかった。イエス自身もそのことを知っていた。イエス自身が戒律からはみだした生まれ方をしていたのだ。だからこそのちに「不義の子」イエスは、最も貧しく虐げられ、絶望の中で生きていかざるを得ない人々の側にたって救いを説くことになったのではないか。聖母マリアの処女懐胎、という言葉にはそんな背景が隠されている。
彼は己の出生の秘密と向き合わねばならず、そのためには考えねばならなかった。考えに考え抜いた結果が彼をして理性の人たらしめたのではないだろうか。戒律が絶対のユダヤ教社会で、最も貧しい人々、戒律を破らなければ生きていけない人々、その為に差別され虐げられた人々に対して彼が言った「大丈夫、救いはあなたのものだ」という言葉はその理性に裏打ちされたものではなかったか。理性を感情に優先させることの重要さを知っていた。その意味で彼は早すぎた近代人だったのかもしれない。
(『世界史講義録 第18回 キリスト教の誕生』金岡新先生)と合わせてお読みいただくと幸いです。
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