教養の意味

教育

 先日、もうずいぶん前になるが、大学のサークルの同期何人かでオンライン飲み会をやろうということになった。メンツはバイパス手術の専門医師とか、日本一大きな企業の管理部門で働く会社員とか、ドクターまで進んだ後、AI関連で起業し複数の賞に輝いた起業家とか様々だ。

「そういうわけで、今夜は夕食はいらないよ。」

と伝えると母は

「よした方がいいんじゃないの?」

と言う。

「なんで?」

と聞くと

「皆さん立派だから・・・。」

と。お前なんかが同席しても惨めな思いするだけだよ。とその目が語っている。私は腹が立った。皆大学時代の大事な友人たちだ。社会的地位がどうなろうが関係ない。それとも俺はそんなにみじめな人生を送っているのか!俺は俺だ!

 同時に母ってこんなにちっぽけな人間だったのか?とも思った。こんなちっぽけな人間の影響下に俺はいたのか?そう思うと一層、怒りが込み上げてきた。私は飲んでいた氷水を口に含みバリリ、ボリリと音を立ててかみ砕いた。

 母は彼女なりに息子のことを気遣ったのかもしれない。でもそんな気遣いは正直、糞バケツ一杯分喰らえだ。いつからこの人はこんなに自分に自信のない人になってしまったのだろう。昔は

「お母さん足速かったんだよ。男の子より速くっていっつもリレーの選手だったんだから!」

と私たちによく自慢したものだったが・・・。

 そんな母には、ありがたがるものが三つある

それは富士山・学歴・美智子さまだ

 彼女は言う。

「ああ富士山はすごいねえ。」

「あの政治家はハーバード出てるんだってよ!」

 「美智子さまはご立派だねえ。」

 

でも、と私は思う。富士山が、ハーバードが、美智子さまが、貴方に対して何かしてくれたか?それよか、巨額の寄付をする実業家のほうがよっぽどありがたいじゃないか?

 確かに、富士山にしろ、ハーバードにしろ、美智子さまにしろ、客観的に評価して一定の敬意を払うことは大切だ。でも、それと、理由もなくありがたがることとの間には天と地ほどの差がある。ただ単に、いわゆるステイタスが高いからとありがたがるのは、育ててくれた親に対して非礼を承知で言うが、それは奴隷根性以外の何物でもない。

 ここまで考えてきて私はふとギリシャ時代の哲学者ディオゲネスを想った。(以下金岡新先生の世界史講義録より)

 このディオゲネスという人、あだ名はイヌ。家は壊れた酒樽。心の平安のために一切の財産、肉親を不必要と考えて、最小限の身の回りの品物だけを袋に詰め込んで路地裏に転がっている酒樽の中で生活していた。まったくの乞食と同じです。でも有名な哲学者。ある時アレクサンドロス大王がギリシャ中の哲学者を集めた。哲学好きですからね。ところがディオゲネスはよばれたけど行かなかった。

 逆に興味を駆り立てられたのがアレクサンドロス。ディオゲネスの樽まで自ら出かけました。そうしたら、ディオゲネスは樽の前でゴロリと寝そべってひなたぼっこをしている。

 大王は近づいて名乗った。「余はアレクサンドロス大王である。」

 ディオゲネスはひっくり返ったままで名乗る。「余はイヌのディオゲネスである。」

 普通は立ち上がって挨拶するところですから、ディオゲネスの態度は滅茶苦茶無礼。いきり立つ側近を押しとどめて、大王は質問します。

「そなたは、余が怖くないのか。」

ディオゲネス「お前は善い人か?」

大王「余は善い人である。」

ディオゲネス「なぜ、善い人を怖がる必要があるか。」

アレクサンドロスはすっかりディオゲネスが気に入ってしまいます。そして尋ねた。

「そなたが望むものを何でもやろう。遠慮なく申せ。」

ディオゲネスは何と答えたと思いますか。

「そこをどいてくれ。お前のせいで影になって寒い。」

 ひなたぼっこの邪魔だからどけ、彼の望みはこれだけ。どんな財産だって手に入ったのに欲しがらないのです。そう、そんなものは心の平安にとっては意味がない、とディオゲネスは考える人なのです。(金岡新先生の世界史講義録より抜粋。若干文体を変更。)

 母はディオゲネスについて知っているだろうか?学んだことがあるだろうか?おそらくないだろう。もしディオゲネスについて学んでいたら、また違った視点を持つことができたのではないか?そういう意味でやっぱり教養って必要なのだ。

 もう70代半ばの母に言っても仕方ない。でもこれから社会に出る10代20代の方々にはぜひ、教養を身に着けてほしい。何もペーパーテストで高得点をたたき出せとは言わない。でも最低限の倫理とか教養ってやっぱり必要なのだ。そのほうが自分自身の人生が豊かになる。のみならず、ひいては社会全体の利益にもつながると私などは思うのだ。

 そんなわけで、この文章をお読みの方々、今日が人生で一番若い日です。是非、教養を身につけましょう。

 

 最後に自分で言うのはおこがましい限りですが、私自身がわずかとはいえ教養らしきものを身に着けることができたのは、他でもない両親のおかげなのです。その視点も忘れてはいけないと思い、ここに記します。ありがとうございました。

 ではまた!

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