揶揄されているうちが華

雑記

 職場の学童で、周りからよくイジメられる。と言うか仲間外れにされる児童がいるというので、その子の様子を観察してみた。すると解ったのだが、その児童はよく他人を馬鹿にする。かくいう私に対してもその児童は馬鹿にした態度をとる。私が職務上よろしくない行動をとったりした際、その子は本当に憎たらしい顔つきで私を馬鹿にする。コケにする。ただよくよく見ていると、どれもこれもその見方が浅い。本当に表面上だけを見て他人を馬鹿にするのだ。例えば私がああいった態度をとったのは、その背景にこれこれこういう理由があったからだとか、あの子がああいう事を言ったのはその背景にこのような事情があったからだとか、そこまで思考が掘り下げられていない。要するに考えていないのだ。良く考えもせずに人を馬鹿にする。その典型例だ。良くものを考える子と言うのはそうそう簡単に人を馬鹿にしない。何故ならその背景をきちんと理解しているからだ。背景を理解していたら、そうそう人を馬鹿に出来るものではないのだ。

 一度その児童に「人をすぐに馬鹿にする奴はやっぱり人からすぐに馬鹿にされるぞ。よくよく情報を仕入れて、それらを自分の頭で客観的に嚙み砕いて、その上でやっぱりこいつはどうしようもないやつだ!と感じたら、その時初めて馬鹿にしろ!いいか感情論に流されるなよ。数字をもとに考えるんだ!数字は嘘をつかない。」と伝えた事がある。どこまで響いたか解らないが、その後はわたしを見て笑うことが少なくなった。

 一方で人を、特に為政者と呼ばれる人を揶揄するという行為自体は、ある程度は必要なのではないかと思う。為政者とは黙っているといくらでも自我が肥大させてしまう生き物だ。たまには笑われて揶揄されて初めて肥大した自分のエゴに気が付くという面が確かにある。これは政治家の先生だって学校の先生だって同じだ。そう言った揶揄や批判をしても、為政者の持つ暴力装置(警察や軍隊)に簡単には取り締まれないように言論の自由、表現の自由が憲法でもって保障されているのだ。

 むかし本で読んだのだが、かのイギリスではなんと日本の明治時代にはすでに王室への揶揄やゴシップ記事が堂々と新聞に載せられていたそうだ。すごい事だ。明治時代、日本で天皇に対するゴシップ記事など書いたらどうなっていた事か・・・。

 逆に言えば何の批判や揶揄もされなくなったら、その為政者による政治はある意味、末期的とみるべきだろう。現在ロシア国内にプーチンに向かって公然と揶揄したり、批判したりできるメディアはどのくらいあるのか?言論の自由度とは世の中の健全さを測るバロメーターなのだ。

 そう考えると、私自身、学童と言う小さな共同体の一為政者として、子供達から何も言われなくなってしまったらお終いだな。と思う。子供達から揶揄されたり文句を言われたりしながら先生としてやっていくのが健全な姿と言える。彼ら彼女らが何も言わなくなってしまった際、それは本当の意味で見捨てられたか、もしくは彼ら彼女らを無言の圧力で黙らせてしまっているかに他ならない。そんな風にだけはなりたくないものだ・・・。

 そんなことを考えながら、今日も職場である学童への道を急ぐ。片道車で45分は少し遠い。でも音楽を聴いたり、今日のようにものを考えたりするのには程よい時間だ・・・。ああ、あそこのラーメン屋今日も並んでいる。今度必ず・・・!おっと!交通事故だけには十分に気をつけないと!ではまた!

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