誰にでも拠り所(アイデンティティー)がある。私にとってのそれは母方の祖父だ。祖父は象牙細工師で、家には祖父が象牙で作った置物や印鑑、装飾品の類が置かれていた。これをおじいちゃんがつくったのかと子供心に感心したものだ。
凝り性だった祖父は自分の作る品物は本来、納得のいくまで時間をかけたかった。でも実際は仕事である以上、効率が求められ、祖母に言わせると「(出来上がった品物の)足の指が5本だろうが6本だろうが、値段は同じなんだから」という事だったらしい。祖母から「次はいつ東京に行くのですか(いつ仕上がるのですか?)と聞かれるのが一番嫌だったそうだ。
そんなわけで祖父は仕事では自分の納得のいくものを追求するわけにいかず、その口癖は「いいなあ、学校の先生は。学校終わったら仕事終わりだもんなあ。」だったそうだ。(祖父の家兼仕事場は学校の隣だった)どうやら私が教員になるよう母が強く勧めたのもその辺りと関係しているらしい。
母がよく話してくれたのだが、昔家の近くの貯水池に近所の子供が誤って落ちてしまった事があった。家で仕事をしていた祖父は話を聞くと一目散に駆け出して貯水池に飛び込んでその子を助けた。実際、わたしが祖父と近所の側溝でザリガニ釣りをしていて溝に落ちてしまった時、祖父は自分の靴やズボンが汚れるのを躊躇せずに側溝に飛び込んだ。小学生の私の肩くらいまでの深さだったので、必ずしも祖父が飛び込む必要はなかったのだがその時は嬉しかった。もっとも帰りの車の中は溝のにおいで臭くなってしまったが・・・。
ある時身内の宴会の席で酔った祖父が祖母の前で私たち孫に「このおじいちゃんが小学一年生の時、クラスで一番かわいい~ちゃんがね、習字で一番上手に書けたの新井君にあげるって言ったの。(祖父の姓は新井)」と上機嫌で語った事がある。子供心に「それはおばあちゃんに失礼だよ。」と思ったのを覚えている。人間味あふれる祖父だった。象牙細工師で、甲子園が好きで、優しくて、いざという時は自分の身をなげうってくれて、自分はこのおじいちゃんの孫なんだと自信を持てた。少しだらしないところもあったがそれはそれで一向にかまわない。そう思えるおじいちゃんだった。
それに比して父方の祖父の印象は薄い。一度おじさん(父の弟)がうちの祖先は田舎の足軽だとかそんな内容の事を言っていたら怒って長谷川家の先祖は由緒正しい家柄なんだ。」とか何とか言っていた。「うちのご先祖様は」というのが口癖だった。子供心に「家柄なんてどうでもいい。大切なのは今でしょ!」と思ったのをよく覚えている。
さて個人に拠り所(アイデンティ-)が必要なように一つの民族(国)にも拠り所(アイデンティー)が不可欠だ。それが神話だ。先日、中田敦彦さんのyoutube大学で日本史編を見て日本の創世神話について一応の知識を学んだ。日本の神話について学ぶのは小学生の時に絵本で読んで以来だったかもしれない。とても面白かったので興味のある方は是非ご覧になってください。
今まで述べてきたことからすれば、拠り所(アイデンティティー)とは何も御大層な由緒正しいお話である必要はない。血の通った温かみのある話があれば十分だと思う。日本の創世神話がどのような意図のもとに、どの様な人達によって創られたのか大まかなことは学んだが、創った人たちは面白かったことと思う。自分で自分が何と呼ばれたいかを表現する「呼び名」ではないが、自分で自分の民族のルーツ・創世神話を作るというのは大変興味深い行為だ。私が創るなら先に述べたように血が通っていて温かみがあり、できればユーモアをふんだんにちりばめたものにしたいと思う。神話の内容次第でその神話を創った民族が「自分たちはどうありたかったのか?」「他の民族からどう見られたかったのか?」が見えてくる。そう考えてみると、世界の神話を比較研究するなんてのも面白いかもしれない。話は移りますが、どうか日本の創世神話が戦前の様に悪い意味で偏った解釈がなされませんように・・・。
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