才と器

雑記

 「才と器」は私が以前から温めてきたテーマだ。今回このテーマで書こうと思ったのは今朝セブンイレブンで立ち読みした『週刊モーニング』の『島耕作』が「才能と老い」と言うテーマを扱っていて、それにインスパイアされたからだ。ご興味のある方は是非、今週号の『モーニング』をお買い求めください。
 

 世の中には実に様々な人がいる。「才」は人一倍あるのに如何せん「器」の小さい人とか、何の「才」もないのに「器」の大きな人もいる。では、そもそも「才」とは何か?また、「器」とは何か?
 

 「才」の方は解りやすい。そのまま才能の事だ。才能にもいろいろあるがここではそこに深くは触れない。押しなべて才能で良い。

 では、「器」とは何か?私が思うに「器」とは「どれだけ確固たるアイデンティティーを持っているか」という事だと思う。ちょっとやそっとの事でぶれたり脅かされたりしない、柔軟でそれでいて確たる「自分」を持っているか?それを指して「器」もしくは器量と言うのではないだろうか?ここで問題が一つ浮かび上がる。「器」がでかいといわれる人は、自己に対して確たるアイデンティティーを持っていると仮定されるわけだが、一体何を根拠にそんな確たるアイデンティティーを持つ事が出来るのだろう?容姿?能力?学歴?それともオンリーワンの何か?それらは皆まとめて「才」と呼ばれるものである。自分の「才」をアイデンティティーの根拠にするのはよく解る話だ。中国史で言うと曹操や李世民などはこの類かも知れない。二人とも歴史に名を遺す優秀な人物だ。それに対し漢の創始者である劉邦や三国志の劉備などはいろいろ読んでみたところこれと言った「才」がない。二人とも戦争は負けてばかりだし、劉邦に至って戦に負けて逃げる際に自分の子供を車から放り投げるような悪い意味での人格者だ。そんな「才」のない劉邦や劉備だが、どう言うわけか人材には恵まれた。おそらく「この人をほっとけない」と言う何かを持っていたのかもしれない。それをして「愛されるキャラ」というべきか。それも含めて「才」と言ってしまえばそれまでだが・・・。
 

 さて、「器」が大きいといわれる人物を大きく二つに分けてみた。前者は「才」を自分のアイデンティティーの根拠にする者。後者は「才の無さ」を自分のアイデンティティーの根拠とする者。果たしてどちらが良いのか?
 

 私が思うに後者がより良い。何故なら「才」を根拠とする場合、いずれは必ず自分以上の「才」を持つ者が現れるからだ。それは年齢とも関係している。今日立ち読みした『島耕作』にもそれは描かれている。年を取り「老い」お迎えるとともに自分の「才」を追い越すものが出てくるのは必然なのである。そうなった時、何をアイデンティティーの根拠とするかが問題だ。自分の「才」をその拠り所としてきた者はそこで焦る。何か他のアイデンティティーを見つけなければならない。うまく見つけられるか否かはその人とその時の状況次第と言うべきか。それに対し後者は強い。こういった「才」はなくとも「器」はでかい人達に共通する点は何か?それはおそらく「自分が好き」という事ではないだろうか?「自分を嫌い」と言う人には誰もついていかないからだ。では自分を好きになる、自己を肯定する上でカギとなるのは何か?または誰か?月並みだが、それってやっぱり「母親」の存在なのではないだろうか?最初に出会う自分以外の人、つまり母親に愛されるかどうかでその人が自分を肯定できるかどうか?つまり自分を好きになれるかどうかはほぼ決まってしまう様な気がする。その意味で女性の果たす役割って偉大なのだ。
 

 いろいろ述べてきたが、結論としては有り勝ちな、女性の果たす役割ってすごいというところに落ち着いてしまった。でも、当たり前とされている事を再発見する事って、とても大事だと個人的には思う。自己弁護(笑)。

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