「まずいお酒だね。」
と母に言われた。言葉には不思議な力が宿る。それ以来、満足して飲んでいたカインズホーム銘柄の350㎖84円の発泡酒がなんだかイヤにまずく感じられるようになった。普段否定的なことは言わない母がめずらしくそんなことを言ったのにはわけがある。それが私にはよく解る。その2~3日ほど前に私が通販で服を買った。それが母には気に食わないのだ。本やマンガを通販で買うのにうちの母はまったく気にしない。しかし、こと服を通販で買うとなると、露骨に嫌な顔をする。服を買う=おしゃれをする=異性の目を気にしている。という図式が彼女の中で出来上がるのだ。そしてそれが面白くない。やれやれと思う。うちの母は実に庶民的な人間で、それでいて抽象的な思考も出来、本もよく読む。私の知性?の大半はこの母から授かったものだと思っている。それはおそらく間違いないだろう。貴重なことだと思っている。その母をして、男が男の性から自由になれないように、彼女も女の性というものから自由になれないのだ。残念なことに。この母の存在がなかったら今の私?はいないだろうし、こんな文章も記していないだろうと思う。
一方で彼女の存在が(言い方は悪いが)私にとってある種の足かせになっているのも事実だ。もし彼女がその意味でもう少しさばけていたなら、私は私の可能性をもっといかんなく発揮できていたのではないだろうか?と思わずにいられない。彼女は常に言っていた。自分の持っている力の7割でこなせる場所に居なさいと。それは彼女なりの精一杯の親心であったのだろうが、結果は見ての通りだ。彼女に一言「挑戦してご覧」言えるだけの器量があったら私の人生は変わっていたかもしれない。保護するという事と自分の手の中に納まる範囲にとどめておきたいという願望は似て非なるもので、そこまでは彼女の理解の範囲外にあったのだ。いや解っていたのかもしれないが、そこが彼女の限界だったのだろう。
もしくは私の能力なり存在なりは彼女の想像を超えてしまったのかもしれない。これまた認めたくは無かったろうが・・・。何にせよ、男が男の性から逃れられないよう、女も女という性から自由になれない。
この話を敷衍すると人は人である以上、人という性から逃れられないのかもしれない。人である以上、嫉妬もするだろうし、惨めな気持ちにもなるだろ。逆に見下しもするし、居丈高にもなるだろう。それが人間だ。
1つにはそういった性から自由になりたくて、私は宇宙に行ってみたいと思っていた。誰もいないからだ。そう思ったのがかれこれもう20年ほど昔の事だ。今となってはどっかの大国の軍事利用とか資源の獲得競争とかで何やら忙しくなった。もう宇宙でさえも手垢のついた場所になってしまったのだ。うんざりとしていた折、職場の知人から山に登ってみないかという誘いがあった。悪くない話だ。山に登るか、深海に潜るしかもう我々に残された場所はないのかもしれない。と格好をつけてはみたものの、ようは逃げ場所が欲しいだけだ。と、自分では分析している。何にせよ山が楽しみだ。
コメント