尊敬と崇拝と

家族

 うちの母は皇室の方々、特に上皇后さま(美智子さま)を崇拝している。それこそ美智子さまの歩いた地面さえありがたがるほどだ。私も皇室の皆様を自然に尊敬している。こんなこと書くと怒られてしまうかもしれないが、皇室の方々だって人間だもの、我々と同じく、時には飲んだくれて愚痴をこぼしたい夜があるかもしれない。でもちょっくらそんなことできない。皇室の皆様はご自身のプライベートを犠牲にして我々国民の象徴として、寄る辺として国民の為に尽くして下さる。その姿には自然と頭が下がる。それに、いち早く被災地に駆けつけ、被災した方々に寄り添うお姿には心を打たれる。私が皇室の皆様に敬意を抱くゆえんだ。ただ私と母のそれには決定的な違いがある。それは私が尊敬と崇拝の間にキッチリと一線を引いている点だ。逆に言えば母は尊敬と崇拝との境界があやふやになっている。それが悪いと言うわけではないが、やはり、尊敬と崇拝とは異なるものだし、この場合、尊敬の方がより良い。何故か?

 以下は私の個人的見解だ。尊敬は自己完結的なのに対し、崇拝の方がより相互補完的な感情である。つまり尊敬するという感情は自立しているが、崇拝と言う感情は崇拝する側とされる側が補完し合って成り立つものなのだ。言い換えると崇拝する側、される側が、依存しあっている。無論、美智子さまは北関東在住の一女性の感情などに頓着はなさらないと思われる。でも、それでも美智子さまにある種のご負担をおかけしかねない。

 私は基本的に『人は自分の足がある限り(もしかするとそれが義足と言う場合もあるかもしれないが)自分の足で立って歩くもの』だと考えている。怪我をして歩けない場合は別として・・・。まず自分の足で歩いて、支えたり支えられたりするのは、それが出来た後の話だ。その方がフットワークが軽いし、小回りが利く。支え合い、もたれ合っていたのでは容易に身動きが取れない。そうするといやでも“固着化”してしまう。ここで言うところの“固着化”とは広い意味で“保守化”の事だ。我々は常にアップデートしなければならない。それは人と人との関係性も、ひいては皇室と国民との関係性も同様だと思う。“崇拝”してしまうとそれが出来にくくなるのではないかと危惧するのだ。それにきっと美智子さまだって“崇拝”なんかされるより“尊敬”される方が喜ばれるのではないだろうか?美智子さまのそう言うお人柄をこそ、うちの母はお慕いしているのだと思う。

 尊敬と崇拝。この文章をお読みの皆さまはどう思われるだろうか?誰よりも相手の為に尊敬こそすれ、崇拝などしない方が良いというのが私、長谷川のスタンスである。

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