審判という仕事

サッカー

 先日のオリンピック・サッカー男子。日本VSスペイン。前半の細谷選手の得点が取消しになったオフサイド。あれは厳しかった。正直、私は憤った。他国のリーグは知らないが、国際戦であそこまで厳しい判定はかつてなかったのではないか?あれこそまさにゲームチェンジャーではないか?ゲームチェンジャーについては先のブログで述べた。ピンとこない方は参照していただきたい。

 あの精度で今後オフサイドと判定するなら、今後はオフサイドの都度、ビデオ判定するべきだろう。あのオフサイドを取った後、審判はもう一度、別のオフサイドでビデオ判定をしていた。あれは審判の後ろめたさ、もしくは罪悪感の表れだったのではないか?そう思うのは私だけではないだろう。

 とにかくあれをオフサイドと判定するのであれば、今後はどの試合においてもビデオ判定を用いるべきだ。あの審判は法律でいうところの一つの判例を作ったようなものだ。まさに解釈の問題だ。今後の国際マッチでは2024年のオリンピックの際のあのプレイがオフサイドになったのだから、と言う一つの基準を作ったわけだ。

 その意味では審判という責務は責任重大だ。公平であらねばならないのはもちろんの事、自身の判断がのちの歴史にまで影響を与えてしまう。それを認識したうえで、一挙手一投足が問われるのだ。生半可な覚悟ではできない仕事だ。サッカーの審判にしろ、法廷の判事にしろ、大変な職業だ。頭が下がる。

 では、全部AIにでもやってもらったらどうか?AIならいわゆる誤審はないはずだ。と考えかけて、何かが私の頭に引っかかる。それはやっぱり違うのではないかと・・・。何故か?絶対的に間違わない存在。そんな存在にすべてを任せてしまったら人間は“失敗”と“反省”の機会を失ってしまうのではないか?反省したり迷ったり、そういう機会を失ってしまったら、個として、種としての人間の成長は止まってしまうのではないか?と私などは思う。その意味で、サッカーの審判にしろ、法廷の判事にしろ、やっぱり人間がやるべきなのだ。そこに迷いがあり、失敗があり、反省がある。それこそが人間らしさなのではないだろうか?

 そんなわけで、何が言いたいかと言うと、審判よ、あれは違うだろ!もう判定自体は覆らない。それは仕方ない。でもせめて一言、細谷選手とイレブン・ベンチに謝れよ!と。ただその後は、また審判業頑張ってねと。辞めたりしないでね。と、私はそう思うのです。

 皆さんはどう思いますか?

 ではまた!

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