先日、兄とドライブをしていて、ゆずの『夏色』がかかった。ゆずは売れてからはスケールのでかい楽曲、例えば『栄光の架け橋』などを歌うようになったけれど、やっぱり初期のこの曲『夏色』が一番いいね。と二人で意気投合した。これとよく似た“逆の”例を私は知っている。私の愛するOasisだ。彼らが歌うそのテーマはスケールがでかい。もし彼らが『夏色』の様な楽曲を歌ったとしても、どこかしっくりこない。なるほど、良くも悪くも“身の丈”ってあるもんなんだなぁと思う。決してゆずのお二人を悪く言うつもりはない。人にはそれぞれスケールの違いと言うか、器の違いと言うか、そう言うものがある。それは否めない事実だ。ゆずにはゆずの、OasisにはOasisの良さがあるのだ。
で、この話を敷衍し、私自身を相対化するならば、私ハセガワにはハセガワなりの“身の丈”があるのだろう。ところが、問題はその身の丈なるものを私ハセガワ自身が未だに測りかねている点だ。今までの文章を読み返してみるに、そんなに小さくはないのではないか?とは思うのだが、じゃあお前の好きなOasisのようにデカいというのか?と聞かれれば、正直困ってしまう。どこかにお前の身の丈はこのくらいだよ!と客観的に判断してくれる人がいたら聞いてみたいものだ(笑)。
ただ、私の身の丈なるものが凡百のそれであるならば、私の書いた文章にそれなりの良さがあったとしても、やはり書いたそばから消えてなくなるだろう。もし私のそれが非凡なものだとしたら、その文章も5年、10年と残るのではないか?と思われる。私自身は死んでからも残るような文章を書きたいと望んでいるのだから、もしかすると私はとんでもない身の丈・身の程知らずなのかもしれない。だとしても誰に謝るつもりもないが・・・。
いつの時代だってそうだが、社会を前に進めてきたのは“身の丈知らず”や“身の程知らず”なのだ。
後日、そんな話をある友人に振ってみたら、
「でも、売れたいんだろ?だったら、その“身の丈”を意図的にコントロールしないと。需要あっての、商品だろ?」
と、どっかのマーケターのようなことを言う。私が返答に窮していると彼は
「だから、ラーメンについて書けよ!絶対みんな飛びつくって!(笑)。」
とたたみかける。そんな会話をかれこれ2~3回は交わしている。“売れる”ことと、いわゆる“芸術性”の両立は可能か?と言う、これまたいつもの命題にぶち当たってしまった。で、実は自分の事を本格派だと思っている私は、やはりこの結論に行き着く。
「売れなくてもいい。本物を書き残さないと!」
PS.
某出版社G社が原稿を無料で添削してくださるというので、今までの原稿をファイル形式でまとめて送付したら、字数をオーバーしているので添削は出来ない旨、教えてくださった。でも良く書けているので執筆はこれからも続けてくださいとの事。タダより高いものが果たしてあるのかないのか?興味深い所ではあるが・・・何にせよ、今後も執筆は可能な限り続けようと思う!
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