今日、友人と4人でとあるラーメン店に昼飯を食べに行った。そこのラーメン店はグーグルで☆4.2の高評価。しかも和風醤油味という事で私はひそかに期待していた。お店につくとすぐに目に入ったのが数々の張り紙。曰く「食後は長い無用!」とか「食べている最中はスマホの電源を切るべし」とか、店主の人柄がそこかしこにうかがえる。「これじゃ注文の多い料理店ならぬ注文の多いラーメン店だな。」と苦笑しつつ、「これだけ注文付ける店主が作るんだから、さぞ美味いに違いない。」と我々は期待を新たにした。出てきたラーメンは確かに美味しかった。ただ、今まで食べたラーメンの中で1・2を争うという程ではない。期待が大きかっただけに正直我々はがっかりした。お店を出た後「確かにうまかったけど、もう次また来ようとは思わないな。」と意見が一致した。こう言っては何だが、少しばかりここの店主は傲慢かもしれない。心の中で私はそう結論付けた。
その後ファミレスでデザートと山盛りポテトをつまみながら我々は取り留めもないおしゃべりに興じた。ウクライナとロシアの戦闘について、間違って振り込まれた4000万をオンラインカジノですってしまった男について、高校時代の歴史教師について、古代ギリシャの民主制について、ガンダムについて、クールビズについて、話題は様々だ。おしゃべりを続けていると、誰の土俵で話すかにもよるが、それでもやはりこの人は良く考えているなとか、この人の話はいつも面白いなとか、この人は物知りだなとか、この人と話しているといつも発見があるなとか、そういうのが解ってくる。私などはへぇ~と思いながら聞いている。だが、その人が卓見であればある程、時としてその人を否定したい衝動に駆られる。(私もこれで結構我が強いらしい。)今日は「勉強は精神論だ」と言い張る友人に対して、効率よくやるに越したことないよ。と思わず反論してしまった。英語の辞書を全部覚えるつもりで単語を片っ端から書き連ねていくという友人。それに対し私はバスケのシュート練習の話をした。漫然と1時間シュートするだけではダメだ。外れることが多いに決まっている。それでは「シュートを外す練習」をしているのと変わらない。「続けて3本決まったら終わり」とした方が集中する。その方が効率的だ。勉強だって同じだ。そう主張した。結論はどちらにも一理ありという事で落ち着いたのだが・・・。
ただ、その時気付いたことがある。それは慢心して傲慢になってはいけないという事だ。アンチテーゼを提示するのはいい。でも自分が一番正しいと勘違いして、相手を全否定してはいけない。全否定された相手は、それ以上意見を言わなくなってしまう。すると全否定した側は一時的にはいい気分に浸れる。だが、どんなに優れた人でも、人である以上、盲点がある。その盲点を指摘してくれる大切な人間関係を自ら壊してしまう事に、それは他ならない。だから誰よりも自分自身の為に傲慢になってはいけないのだ。謙虚であれ!と言う言葉を今まで幾度となく耳にしてきた。どこにでもありふれた人生訓だ。今までなんとなくそういうもんか。と聞き流してきたが、齢45にして初めて“謙虚であれ”の本当の意味が解った。人は傲慢になった途端、それ以上の向上が難しくなるのだ。と言うか、先に述べたように傲慢になった途端、向上の為の糸口を自らふさいでしまうのだ。
だからより向上したいのならば、いつまでも謙虚でいた方が都合が良いのだ。つまり、向上したくば、謙虚たれ!という事。少しばかり気付くのが遅かった。でも、それでも気づけたことは大きい。一般によく言われる教訓の背後にどんな意味が隠されているのか?以前にも述べたが、そこにはある種のダイナミズムがある。それに気づけるか、気づけないかはとても重要だ。お昼に訪れたラーメン店の主人にも聞かせてやりたい。大きなお世話と言われるのが落ちかも知れないが・・・。
さて、この文章をお読みの皆さんはどう思うだろうか?「向上したくば、謙虚たれ!」もっとも、みんながみんな向上心に溢れた社会ってのもどうかと思うが・・・。私?真面目な話、私はここぞと言う時は限りなく傲慢に、それ以外はごくごく謙虚に生きていきたいと思っている。納得いただける方も多いはず(笑)。ではまた!
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