友達の条件とは何か?今は懐かしき「池袋ウエストゲートパーク」では主人公の誠が「誠は誰とでも友達になれるの?」と聞かれて「信頼できればな。」と答えている。これはこれで一つの答えだろうが、私の見解はちょっと違う。本当の友達とは対等でなければならない、と言うのが私流友達の条件だ。
私には親しく付き合うようになってかれこれ7~8年の友人がいる。はじめて言葉を交わしたのは確か中学生の時だったからそれから数えれば30年来の友という事になる。高校も一緒で彼は東京の大学に私は仙台の大学に進学した。大学時代、素人離れした絵をかく彼は美術部に属していた。それから出身県に戻って再会したのが確か2012年か2013年。それ以来、同じ文学部出身という事もあり懇意にさせてもらっている。彼には綺麗な奥さんと可愛い娘さんが2人いて、県内でも指折りの大きな病院に勤めている。「医療従事者の女性には素敵な人がたくさんいる。」といつも自慢げに話している。ついでに「病院内でかっこいい男は自分だけだがな。」などとうそぶいてもいる。
その友人からよく言われるのが「彼女でも作ったらどうか。」と言う言葉だ。「いいな、じゃ誰か紹介してくれ!」と頼むと決まって友人は「無理。」と答える。先に述べた通り「ナースには素敵な人がたくさんいるぞ。」といつも話しているので是非にとお願いしているのだが、決まって答えは「無理。」「お前なんぞ紹介しても相手にされない。」「女性は自分以上の年収の男性にしか興味ない。」と返される。「いや、医師やナースといった経済的にも社会的にも十分に独立した存在だからこそ、私の様な甲斐性なしでも相手にしてくれる経済的・心理的余裕があるんじゃないの?」と思うがそれは黙っておく。私には友人の心中がよく解る。友である私があまり幸福になられても困るのだ。もしくは彼の妬心に触れない程度に私に幸福でいてもらいたいのだ。友人ならば相手の幸福を願うというのが一般論かも知れないが、事はそんなに単純ではない。友であればこそ自分と差がつくのを恐れもするし嫌がりもする。綺麗な奥さんと可愛い娘さんが2人もいて私にないものをたくさん持っているのだからいいじゃないかと思うのだが・・・。
彼が必要以上には私の幸福を望まなくなった理由の1つ。それはこのエッセイだ。このエッセイを綴り始めてから彼の態度は微妙に変わった。そこにある種の嫉妬が見受けられるようになったのだ。彼の「お前には文才があるじゃないか?もっとも誰も認めていないがな。俺も含めて」と言う言葉にそれがよく表れている。「おいおいそんなに意識しなくてもいいだろうに。」と思うのだが・・・。私はエッセイを綴るのが唯一の楽しみで、恋人はもちろん、友人だって数えるほどしかいない、極々しがない中年男性に過ぎない。もう少しこの冴えない中年の幸せを願ってくれてもよさそうなものなのだが・・・。もしくは世に名が出るとはこのようにすごく寂しい事なのだろうか?もっとも私の名が世に出る事なんてあるのかないのか・・・。何にせよ器が小さいぞアジアの大木よ!!!(笑)
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