劇薬

 社会生活を営む上で感情を共有することは重要だ。職場、友人、家庭、人付き合いをうまく進めていく為に、それは必要不可欠とも言える。他者に共感することで、お互いが好印象を持ち、ひいてはそれが円滑な人間関係につながるからだ。ただし何でもかんでも共有すればよいというものではない。私自身も感情を共有することが嫌いではない。嫌いではないが、用心はしている。安易に感情を共有しないように。それは何故か?

 私がまだ学生時代の1998年。サッカーフランスワールドカップを3戦全敗という結果で帰国した代表選手に、あるサポーターがコップの水をあびせるという事件があった。なぜ彼はあんな馬鹿な真似をしたのか?彼だけが日本代表の結果に不満を抱いていたのならあんなことにはならなかったと思う。「みんなも自分と同じように感じている」という勝手な認識、それが彼の中であのような行為を正当化させる「感情的根拠」になっていたのではないか。でなければ言葉を交わしたこともない他人に対して何故あれほどの怒りを抱くことができるのか、私にはわからない。彼の行為こそ「安易な感情の共有」のなせる業なのではないだろうか。
 

 もともと人間は「感情を共有すること」が好きだ。ただしそれは喜びや笑いといった正の感情だけではない。憎しみや、怒り、といった負の感情もまた我々は共有する。歴史上、宗教に起因する戦争が残虐なのも、社会に「スケープゴート」とか「いじめ」とか「炎上」といった言葉があるのもこのためではないか。
 

 思うに「感情の共有」とは劇薬なのだ。効き目は大きいが、副作用もまた大きい。用法と容量を間違えるとまずいことになる。もっとも処方箋なんてはじめからない。自分に合った用法・用量を自分で見つけるしかないのだ。ただ、飲みすぎには注意したい。薬なんてたまに飲むからこそ効き目があるのだから。
 

 この事件があった頃から私は宇宙空間にそれこそ身1つで放り出されてみたいと思うようになった。その理由の一端は次のフレーズにある。
「宇宙は我々を受け入れもしなければ、拒みもしない。ただただ無視するだけである。」
しびれるフレーズだが何のことはない。要は、宇宙は我々を「ほっといてくれる」のだ。宇宙には比較すべき何者も、感情を共有すべき何者もいない。誰もいなければ孤独すら感じずに済む。そんな思いが無意識のうちに言葉になって口をついた。
「一回宇宙に行ってみてえな。」
隣にいた友人が
「ふん、宇宙には誰もいねえからな。」
と相づちを打った。ごく短いフレーズの会話だったが、おそらく私と友人は分かち合えた。
そう、「分かち合わない事の価値」を。

fin

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