大学時代、ある先生をつかまえてこんな質問をした。
「中世ヨーロッパの王侯貴族が〔道化師〕を召し抱えたのは寂しかったからではないでしょうか?ジョークって奴は自分と同等か目下の物に対して有効なわけで、そうすると一番偉い王様にはジョークを飛ばせる存在がいなくて、そこで敢えて道化師のような存在をそばに置いたのだと思うのです。」
私は自分の〔発見〕を誰かに伝えたかったのだ。それを認めてもらいたかったのだろうと思う。そんな私の心中を先生は察しておられたのかもしれない。「君はおもろいこと言うなあ。ええなぁ。」と褒めてくださった。私は思わずうれしくなった。今にして思うと先生は私に≪自信≫を授けて下さったのだと思う。ああ、あの「ええなぁ」は肯定のための肯定だったのだ。当の先生ご自身はきっとお忘れになっていると思うが私にとっては忘れられないエピソードだ。
それとは別に、ある時、ある大学院生にこんな話を振ってみた。「やっぱゲイって繊細で美意識にすぐれているんですかね?槇原敬之の音楽聞いていてもそうですもんね。」そしたらその大学院生は頭ごなしに否定してきた。どんな風に否定されたかは覚えていないが、とにかく頭ごなしに否定された。私は計算は出来ないが人の敵意を感じ取れぬほど馬鹿ではない。「ああこれは否定のための否定だ。」それ以来その大学院生には話しかけない事にした。もっとも当時の私は卒業論文をほめられて「自分の頭で考えたことを文章にして褒められるってこんなに気持ちいいものか」と多少浮かれていた。彼はそれが気に食わなかったのかもしれない。文系の大学院生などと言うのは今も昔も明日をも知れぬあやふやな身分である。気持ちは解らぬでもない。その彼も、今では教授だ。あのころとは違う対応ができるものと願いたい。
肯定のための肯定、否定のための否定。いろいろな状況があって、いろいろな人がいるわけだが、さて、ひるがえって私自身はどうか?おかげさまで別の学童に再就職できた私としては無論、前者でありたい。子どもたちがどんなに拙い事であっても「見て見て、聞いて聞いて。」ときたときに「ほう、すごいねぇ~。」と言ってやれる存在でありたい。それが、この仕事のはじめの一歩だと思うのだ。
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