先日、職場の食堂で私が一人、窓に向かって食べているとある同僚が向かいに腰かけてくれた。「最近どうですか?」と聞いてくる。思わずうれしくなった。私は障がい者枠で雇用されている立場で、正直仕事はできない。にもかかわらずいっぱしにエッセイなど綴っているものだから、当然周囲の評判はよろしくない。自分でも承知している。よって私に近づくことはその同僚にとって損になっても得にはならない。それを承知で向かいに座ってくれた。優しさが身に染みた。
社会人になって常々思うのは、いかに多くの人が損得で付き合う相手を選んでいるかという事。この人と仲良くすることが自分にとって損か得かで付き合う相手を選ぶ。社会人ってそういうものなんだと半ばあきらめかけていた。ところが、この同僚にはそういうところが欠片もない。「優しさっていうのはこういう事を言うんだ。」と思った。そのような判断基準で言うなら、私自身も結構優しい方だ。飲み会などで暇そうにしている人がいると積極的に話しかけに行く。そりゃ自分がそうしていたら寂しいからだ。
では、その優しさは何処から来るのだろう?生まれ持ったもの?確かに生まれ持った性格的なものはあるだろう。でもそれだけではない。どんなに性格的に優しい人でも心にゆとりが無ければ人に優しくできない。では心のゆとりとは何か?時間的・金銭的に余裕があるという事?私自身は時間的にはともかく金銭的にはそうそう余裕のある方ではない。では・・・と考えていたところ、ふと、少し前に読んだ『町田くんの世界』(安藤ゆき)が脳裏をよぎった。すると直感的に答えは出た。そう、愛されてるってことだ。誰かから愛されているという事、それが一番心のゆとり・安心感になるんだ。これを論理的に説明するのは難しい。ただ誰かから愛されていると心が温かくなる。それは私にもよく解る。そしてそれを誰かにおすそ分けしたくなる。それが「優しさ」なのではないだろうか?家族・友人・恋人こういった人を愛するのは極々当たり前の事だが、それが何故、大切なのか今解った気がする。愛は広がっていくものなのだ。
話は戻るがこの同僚にも家族や恋人や友人がいて、きっと十分に愛されているのだろう。其処から彼の「優しさ」は湧き出てきたのだと思う。今更ですが、ありがとうKくん!
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