私はめったなことでは怒らない。高校教師をしていた当時も、学童支援員として働く今もそれは変わらない。私が怒るのは強者が弱者をいじめている時、もしくは多数で個人を集中攻撃している時だ。なぜこういった場合に怒るのかと自問自答してみたのだが、つまりは、それが私の美意識を逆なでするからだろう。いわゆるいじめや、多数による個人攻撃を目にすると「この人たちには恥という概念が無いのか?」と無性に腹が立つ。どうやら、これが私の人格のコアを成す要素の1つらしい。
ところで、フランス語で「ノブレス・オブリージュ」という言葉がある。簡単に言うと「貴族の義務」である。社会的に高い地位にある人ほど、社会の模範となるように振る舞うべきだという意味合いの言葉である。この言葉によれば「恥」とか「美意識」というのは高貴な身分の人たちこそが持つべき感情ととれなくもない。でもそれは違うと思う。私はどう見ても高貴な身分などではないし、年収だって少ない。でも上記の様に私にだって「恥」や「美意識」はある。と言うか、どちらかというと敏感な方だ。それで悪いか!と考えていたら日本にも悪くない表現があった。「ボロは着てても心は錦」だ。いい言葉だと思う。心に留めておきたい。ついでと言っては何だが、こんな表現もある。「旅の恥は掻き捨て」と、ここまで筆をすすめてきて気付いたのだが、どうやら我々が何気なく使う「美」という言葉は大きく2つに分けられる様だ。1つは個人に由来する「美」。もう1つは共同体に由来する「美」。先の例で言えばノブレス・オブリージュとは共同体に由来する「美」であろう。また、「旅の恥は掻き捨て」も共同体にその由来を求める事が出来よう。これらに対し、「ボロは着てても心は錦」などは個人にその由来する「美」と言える。そして私が感じる美意識もまた私という個人に由来する「美」である。
以前このブログにも書いたが安部元首相の唱えた「美しい国」というフレーズに共感できなかったのも、戦中の教育の在り様に違和感を覚えるのも、それらが共同体に由来する「美」にフォーカスしていたからだ。今後はもっと個人に由来した「美」にフォーカスしていくべきだと私は思う。
そして話は飛躍するが、この話題を突き詰めていけば究極的には、「共同体あっての個人なのか?」はたまた、「個人あっての共同体なのか?」という永遠の命題に突き当たる。にわかには答えは出ない。ただ、私個人としては「誰が何と言おうと俺はあの子カワイイと思う!」と大声で言える世の中の方がより健全なのではないかと思うのです。皆さんはいかが思いますか?「誰が何と言おうとあの子カワイイ!」もしくは「誰が何と言おうとあの人カッコいい!」と言えますか?言える世の中であって欲しいと、そう望むのは私だけでしょうか?
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