信頼

教育

 私は頭の回転の速い方ではない。機転の利く方でもない。よってとっさの上手いウソとか、人の行動を先回りして手を打つといった行為が得意ではない。と言うか出来ない。でもそれで良かったと思っている。ウソとか誤魔化しと言うのはいずればれる。他人はそんなに馬鹿ではない。ボディーブローのようにじわりじわりとウソや欺きは相手に知れるものなのだ。そして後になって、「あの人はあの時ああやって誤魔化した」という事実が残る。そしてその事実自体は絶対に誤魔化せない。そういう事だ。そして欺きや裏切りが重なれば他人は離れていく。欺きや裏切りの事実は“染み”のようにその人に付着する。一度染みついたら最後、なかなか拭い去れるものではない。信頼とは一度失うと、取り戻すのには物凄く時間と労力がかかるものなのだ。
 
 私は人が人を平気で裏切ったり、人が人を平気で欺いたりと言うのはマンガや小説の中だけの話だと思っていた。でもこの年45歳になって初めてそういう人が結構普通に実在しているのを知った。どうも私はお坊ちゃん育ちだったというべきだろう。私がこれまで交友を持った人たちを振り返ってみても、皆素朴で善良で基本的に正直だった。どうやら私は恵まれていたらしい。

 衣食足りて礼節を知ると言う言葉がある。私はいつも思うのだが、衣食が満たされて初めて礼節をわきまえるというのなら、何が満たされたら人は「恥」や「罪悪感」と言う感情を知る事が出来るのだろう?どんなに金銭的に恵まれていようとも、「恥」や「罪悪感」と言った感情を知らない人もいる。一方で貧しい生活の中にも「恥」や「罪悪感」と言った感情をきちんと備えている人々もいる。どうやら金銭の問題ではないらしい。また、先にあげた「欺き」や「裏切り」を常套句として用いる人々は「恥」や「罪悪感」と言った感情からフリーなのだろうか?きっとこれはもっと人の心の奥の方から生じる問題なのだ。その人の心の奥の方の事を指して「倫理」とか「人の道」と言う言葉が存在する。「道徳」もその一つだ。

 思うに最も大切なのは「信頼関係」なのだ。何故ならこの世のすべては「信頼関係」をもとに構築されているからだ。我々を取り囲む貨幣経済それ自体が信頼に基づくシステムだし、法治国家と言う国家の仕組みもやはり、法と言う信頼に基づく概念に依存している。つまり「信頼関係」が全ての根本なのだ。この信頼関係をきちんと積み上げることが本当の意味での人間を育てるのだ。逆に言えば人と人との信頼関係(それは親との、兄弟との、友人との、教師との、仲間との)をきちんと積み上げて来られなかった人が平気で「欺き」や「裏切り」を繰り返してしまうのではないか?そんな風に思うようになって久しい。

 言いかえるならば「恥」や「罪悪感」と言うのは人と人との信頼関係をきちんと構築してきた人・できている人に芽生える感情なのだ。それを含めての学校教育・学童教育だ。そう思うと学童で子供を預かる我々の責任は重い。通信教育などの選択肢もあるが、そういった事を含めての“学校教育””学童教育”なのだ。一方で、クラスと言う閉じた社会の中では“ボス”なり“王様”なりが生まれ、そこにはスクールカーストなる代物が出来てしまう場合もある。そう考えるとどちらが良いのか難しい所ではある。

 何にせよ、今後も教育に携わるのであるならば、まずは「信頼関係」を大切にしなければ。そう思った次第だ。逆に言えば人と人との「信頼関係」を平気で踏みにじるような輩は教育に携わるべきではない。基本的に正直であること、それが一番の近道なのだと思う。馬鹿でも何でもいい、正直に行こう。そう思った。

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