何のために生きるのか

人生に対する姿勢

 先日、マンガ『ブランクスペース①~③ 熊倉 献』(ヒーローズコミック ふらっと)を読んでいて作品中に石川啄木の歌が出てきた。

「さばかりの事に死ぬるや」「さばかりの事に生きるや」
止せ止せ問答

訳「これだけのことに死ぬのか」「これだけのことに生きるのか」問答なんか止めちまえ!

なるものだ。しばしば自殺の誘惑にかられた啄木の心の中の問答だろう。

指しあたって私に自殺願望はないが、

「さばかりの事に生きるや」 (これだけのことに生きるのか)

と言う箇所は人間にとって普遍的な問いだ。考えてみる価値はある。我々は何の為に生きるのか?私も物心ついたころから小学生低学年くらいまでに何度も自問自答した。とても難しい問いで容易には答えが出ないが、最近の私はこう解釈している。

 逆説的ではあるが、“良く死ぬために”我々は生きているのではないか?と。もう少し詳しく言うと“良い死に方をするために”我々は生きているのではないか?と。良い死に方とは則ち、死の間際に
「生まれてきて良かった。生まれて来て大正解の大満足!」
と、納得して死ぬ事だそこに後悔はない。そんな死に方をするために、我々は生きているのではないか?そう解釈している。それは言い換えれば豊かに生きるという事だ。豊かに生きるとは、美味しいものを食べ、美しいものを見て、心地よい音色に耳を澄ます。そういう事だ。でもそれだけでは足りない。人と人との間に生きる人間としては、それらを共有する誰かが欲しい。つまりそこには良好な人間関係が不可欠だ。そして良好な人間関係を築くために、我々は真心をもって他者に接すべきなのだ。ただ、全ての人に真心をもって接すことは難しい。そこには利害関係もある。だからせめて、自分の大切な人、家族、恋人、友人、同僚、そういった人達に真心をもって接する。それが豊かな人生を送る事、ひいては“良く死ぬ事”につながるのであり、生きる目的への近道なのではないか?そんな風に最近の私は考えている。

 これらを簡略して述べると、要するに「近しい人達を大切にして、正直に生きよう!」という事になる。何だか極々当たり前の結論になってしまったが、何度も述べているように“当たり前”って大事なのだ。ただ何故“当たり前”が大事かを紐解いていくと、そこには非常にダイナミズムに富んだ面白さがある。その面白さをじっくりと味わう時間的余裕が現代の資本主義社会には足りていないのではないか・・・?とは常々思う。AIやロボットに仕事は任せて我々人間は原理原則について立ち止まってじっくりと考えるべきなのではないだろうか?そんな事を2023年の年頭に当たって考えた。

 皆さんはどうお考えだろうか?
えっそんなこと考えるヒマはない?
いや、ヒマって本当に尊いものなんですね!
どうぞヒマを大切に!
ではまた!

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