ホメオスタシスとトランジスタシス

友人

 突然だが私はカラオケに行くと一曲目は奥田民生さんの『さすらい』もしくは『イージューライダー』を歌うことにしている。理由は歌いやすいし、何より万人受けするからだ。

 先日、友人宅に行った際、お家でできるカラオケ(インターネットでYouTubeと同期?されているらしく家で本格的なカラオケが楽しめるおもちゃ?)を使ってオッサン二人でカラオケ大会をやった。その際、私がとりあえず、一曲目に『さすらい』を入れると、友人は
「俺一曲目に奥田民生歌うやつって大嫌い!」
と私のことを面と向かって全否定してきた。彼の良い所は面と向かって相手を全否定するところだ。表面だけ繕って後で陰口を言ったりしない。男友達というのはこうでなくちゃ。     

私が
「何故?奥田民生なら誰でもわかるし、万人受けするし、とにかく無難だろ?」
と言うと、彼は
「とにかく無難にまとめようとするその姿勢がダメ。解かってない。」
と言って自分はピストルズの『アナーキー・イン・ザ・UK』を歌い出したのでたまげた。他にも彼は美空ひばりさんの『愛燦燦』などを歌った。私は友人を見直すと同時に、少し反省した。オッサン二人でカラオケをやるのに一体何を無難にまとめる必要が在ろうか?いつからそんなにつまらない大人になってしまったのか?私は?
 
 以前、勤めていた会社の方々とあるスナックでカラオケをしたことがあった。その際一緒にいた方でとっても上手に歌う方がいた。聞けばその方は学生時代合唱部にいたそうで声の艶とか音取りとか素人離れしていた。
「こんなにうまい方と一緒なら変に遠慮する必要はないな。」
と思い、私はOasisの『ドントルックバック・インアンガー』を歌った。すると一緒にいたお客さん達から言外に「張り合うのはやめろよ。」と言うメッセージが送られてきた。英語の歌詞だったのも良くなかったのかもしれない。私は
「あれれ、歌いたい歌をうたっただけなのに・・・。カラオケ一つとっても空気を読まねばならないのか・・・。」とガッカリしたのを憶えている。その頃からかもしれない。奥田民生さんの『さすらい』や『イージューライダー』を入れるようになったのは。

 友人はそんな私に喝を入れてくれた。気心の知れたオッサン二人でカラオケをやるのにどうして空気を読む必要があろうか?

 そこで私は「ああ、この男の前で遠慮などする必要はなかった。失礼な事をした。」と思い直し、ザ・イエローモンキーの『JAM』をそれこそ熱唱した。この曲を歌うのは10年ぶりくらいだったかもしれない。「上手過ぎてもだめ、下手過ぎてもだめ。感情をこめすぎてもだめ、感情をこめな過ぎてもだめ。」そういうくっだらない外面を取っ払って思いのままに歌った。非常に気持ち良かった。カラオケはこうでなくちゃ!

 さて、カラオケに限らず我々大人は常日頃“空気を読む”事を強いられているわけだが、内心くっだらねーと思うのは私だけだろうか?読み過ぎてもいけないし、読まな過ぎてもいけない。なんか丁度よいガイドラインでもあったらいいなと思ってしまう。
 
 ただ、ここからは真面目な話。ホメオスタシスとトランジスタシスと言う言葉がある。“今を維持しようとする力”と“変えようとする力”のことだ。この場合“空気を読む”とは前者のホメオスタシス“今を維持しようとする力”に他ならない。何事においてもそうだが、時間の流れとともに“徐々に徐々に”発展してゆくのがベストだ。ただ、歴史を学んで解ったのだが、多くの場合その流れは一定ではない。緩やかかと思えば、「激動」の時代と言う言葉からも解るように短期間に急激に変化する事がままある。

 島国である以上、地理的に嫌でもこの国は保守的になりがちだ。つまり“ホメオスタシス”が幅を利かせている。緩やかな発展を目指すなら“トランジスタシス”つまり現状を打破しようとする力が少し割合的に多いくらいの方がいいのでは?と私などは愚考するのだが・・・。

 また、何事においても、ハードランディングよりソフトランディングの方が好ましいのは言うまでもない。その為にも、“ホメオスタシス”と“トランジスタシス”の割合を考え直すべき時期なのではないか?・・・。つまり何を言いたいかと言うと、現状ってのは常に打破されるものだし、空気ばっか読んでいる連中にそれは出来ないよと。つまり未来はないよと。

 と、ここまで書いてきて、何か随分と扇動的な文章になってしまった。反省。偉そうなことをつらつらと書いてきたが、この文章をお読みの皆さんはどう思うだろうか?ホメオスタシスとトランジスタシス・・・。難しい所ではある。

ご意見お待ちしております。

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