先日、友人から「貴方は控えめなようでいて実は相当にセルフィッシュな人物だ。」と言われた。「そのセルフィッシュな俺をいつも運転手代わりにして自分はどうなんだ?」と一瞬腹が立った。でもさすがに付き合いの長いだけあってよく解っている。どういうことか?友人が言うにはこうだ。
ルターという人物がいた。15~16世紀の現在のドイツに生きた人で宗教改革の中心人物として名高い。簡単に言うと
「大金を払って御守りを買えば天国に行けるって?そんなバカな話があるか!(怒)」
と当時の最高権力者にたてついた人物だ。何を隠そう私はこのルターが結構好きだ。でもちょっと考えるとこのルター、とんでもない傲慢な人物だったとも言える。時の最高権力者に歯に衣着せぬ物言い。彼の生きた時代と、その主張するところが、たまたま公共の利益に合致していたから歴史に名が残ったものの、そうでなければ今で言うところの空気の読めないただの“強情貼り”だったのではないか?そう思うようになって久しい。
その他にも歴史上の偉人などと呼ばれる人は、一社会人としてみたら問題のある人物である場合が圧倒的に多い。現在NHKの大河ドラマ『青天をつけ』の主人公渋沢栄一もドラマでは格好よく描かれているものの、御落胤がなんと20人近くもいたらしい。週刊誌で情報を仕入れてきたうちの母などはその時点で「ドラマを見る気が失せた。」とのこと。
この渋沢栄一も実は我の強い傲慢な人物だったのではないか?そもそも皆と足並み揃えて、空気を読んで事を運ぶような人物が“一代で大事を成す”などできようはずもない。本当に世のため人の為、まわりの事を第一に考えるような人だったら、それこそ現代で言うところのボランティア活動などに精を出し、歴史に名など残らないのではないだろうか?本来ならそういう人こそ賞されるべきだし、敬意を払われるべきなのだが・・・。実は歴史に名の残るような人物というのは「世のため人の為」とか、「公共の利益」とかを隠れ蓑にして、単に自己実現を図りたかっただけの極々セルフィッシュな人物だったのではないか?
歴史上の人物と比較するなどおこがましいにも程がある。でも私にもそういう節があると友人は言うのだ。一見おとなしそうなそれでいて相当に傲慢な人間だと。それは私の書く文章によく表れていると。
言われてみれば、思いあたる節が多々ある。どうも私は気配りとか気働きと言う事が出来ない。それに空気を読むという行為も出来ない、と言うか嫌いだ。学童の職場は基本女性社会で、阿吽の呼吸が必要だし、男性社会と比べるとはるかに空気を読む事、気配り、気働きが必要だ。そのような中に入ると私などは“使えないこと甚だしい”。のみならず、無自覚のうちにその傲慢な性格のせいで職場の和を乱してしまう。同僚の皆さんには迷惑をかけてばかりの毎日だ。日々反省する。(皆さんごめんなさい。)仕事を遂行する上では空気も読まねばならないし、気配りも気働きも必要だ。傲慢さなどもってのほかだ。
ただ、それとは別に文章を書く上ではいくら傲慢でも空気を読まなくても一向にかまわないと思っている。ある作家が文章を書くことは自分にとって祈りのようなものだと言っていた。私にとってもそれは肯ける事だ。空気を読んだり、忖度したりしながら祈る人などどこにいようか?
職場ではどこまでも謙虚に、周囲の意をくんで、それでいて自分の世界ではどこまでも傲慢に純粋にそして真摯に取り組んでいけたらよい。そう思った。
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