スネ夫とサッカー

教育

 「何にしても女性という生き物が陰口・噂話・世間体そういったものから自由になれないのは彼女たちが群れる生き物だからだ。そして彼女たちが群れざるを得ないのは、個として弱いからだ。石器時代なら腕力をつけるべきだったのだろうが、現代は違う。現代は勉強こそするべきだ。そして知的に個として強くなるべきなんだよ。」

と私は言った。友人が答えて言うには

「そう、そうやって下手に賢くなるとね、出生率が減っていくんだよ。そして人口は右肩下がり。そういう意味では我々大衆は下手に賢くなるべきじゃないんだよ。」

 目から鱗だった。私は今まで一貫して、我々大衆はもっと勉強して教養を積んで、【一市民】になるべきだと常々考えていた。友人の言葉は私にとってはちょっと想定外のものだった。

「う~む。なるほど。そういえばある人が言ってたな。フィリピンの人は子供は多ければ多いほどいいって言うって。その方がにぎやかで幸せだって。」

 話は移るが、以前学童保育に勤めていた時その赴任の第一日目に私は子供たち(男子)と一緒にサッカーをした。子供たちにサッカーを教えることくらいはできる私としては一緒に汗をかきながらサッカーをしていてとても楽しかったし、子供達も喜んでいた。ただ、何事にも言えることだが新しい何かが生じると、それが面白くない人も存在する。以前から勤めていた男性職員は自分が今まで築き上げてきた人気が、サッカーを一緒にプレイする私に取られると危惧したのだろう。彼はあろうことか一輪車にどでかいスピーカーを載せ、自分のスマホからヒップホップの曲を飛ばしてそれを大音量で流しながらグランドに割って入ってきた。するとサッカーをしていた子供たちは一人また一人と一輪車で大音量のヒップホップを流す彼のほうへと集まってゆき、サッカーは消滅してしまった。

 子供たちは面白いほう、興味が惹かれるほうへと流れていくのだから、それはそれで仕方ない。私は汗をぬぐって一息ついた。男性職員も自分のポジションを守るので必死だったのだろう。それが伝わってきたので私は何も言わなかった。ただ、後になって考えると、あれは子供たちにとっても、我々にとっても良い事ではなかった。まるで、最新のオモチャを見せびらかして人気を得ようとするスネ夫のようであった。ひどく幼稚で野蛮な行為であったのだ。それよりボール1つあれば皆でできるサッカーをやったほうがどれだけ得るものが多い事か。あの時一言言っておけばよかった。その場で何も言えない。もしくは言わないのが私の悪いところだ。あの男性職員が仮にサッカーが下手だったとしても、自分が率先してサッカーの輪の中に入ってくるべきだったのだ。それができないのは彼の器のせいとしか言いようがない。残念なことではあるが・・・。

 と思っていたのだが、今日友人の話を聞いて、私は少し考えなおした。その男性職員の行為は自分の感情むき出しで、どう贔屓目に見ても紳士的とは言い難かった。でもそれで良かったのではないか?私ごとき中途半端なインテリ(自分で言うのもおこがましいが)が下手に紳士的な行為とか知性とか文明とかを持ち込むべきではなかったのではないか?我々大衆は理不尽なことをされたら怒る、悲しければ泣く、腹が減ったら「腹減った!」と口にする。それでよかったのではないか?何が幸せか?独りよがりだったのは私の方だったのかもしれない。

と、その友人に話すと、彼は

「う~ん。まあ、その学童のカラーにもよると思うけど・・・。でもさ、それで差が出ちゃったら嫌だよな。保育料の高い学童と低い学童でさ。職員の質も含めて、二極化が進んじゃったらさ。」

「確かに。小学生の内から分断が進むとしたら・・・そんな未来想像したくない。でも悲しいかな。それがリアルなのかなぁ~。」

と、まあ、そんなことを感じたGWの一日でした。何が正しいか私には解りません。でも考え続ける姿勢にこそ、答えはあるのかなと・・・。

 何にしても、家族や友人、そして近しい人たちが幸せでありますように・・・。

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