先日、職場の学童で、外遊びの際マスクを外すべきか否か、喧々諤々の議論をした。その帰り道、私は「これは不謹慎なジョークで、ジョークと言うものは不謹慎であればある程に面白い。」そう前置きしたうえで「マスクを外すべきか外さざるべきかで揉めているこのご時世、1番熱い遊びは騎馬戦でしょう。相手のマスクをむしり取ったら勝ち!」とジョークを言った。そうしたら同僚の先生に「長谷川先生、不謹慎ですよ、不謹慎!不謹慎!」とたしなめられてしまった。でもその先生の目は大いに笑っていた。持つべきものはジョークの解る同僚だ。N先生有難う!
このジョークが面白いのは、マスクをすべきか否かの議論を私が“俯瞰”していたからだ。このように面白いジョークには自己を“俯瞰”する視点が不可欠だ。
これに対し、身内の話で恐縮だがうちの兄はあまりジョークを言わない。言ってもあまり面白くない。でも、物凄い博識だし、頭の回転も速い。ただ私に言わせれば、自己を“俯瞰”する視点に欠けている。母に言わせれば目の前の事に真面目で一生懸命だし、不器用だという事になる。
このようにユーモアやジョーク(知性)には自己を俯瞰する視点が不可欠だ。対していわゆる頭のよさにはそれが必要ない。これが頭の良さ(スペック)と知性に関する私なりの見解だ。
ただ、最近感じるのは何事も“俯瞰”している奴って嫌味だよな、俺を含めて。という事。その意味では私の方が兄よりよっぽど人が悪い。何事も一長一短なのだ。
ところで、これは恋愛についても言える。今日昼にNHKの囲碁トーナメント張九段対福岡三段の試合を観ていて面白いと思ったのだが、最近ではAIが一手指すごとに両者の勝率をはじき出す。44%対56%といった風に。同様に恋愛AIなんてのが発明されると面白い。次の一手(手を握る・プレゼントする・敢えてそっぽを向く)ごとに相手との優位性(勝率)が揺れ動く。もっともそんな視点を持つその在り様自体が、私などはあまり色恋沙汰に向いていないのかもしれない。昔、武田真治さんが言っていた「恋愛なんて始めくらい熱くならなきゃ意味ないでしょう。」と。面白い発言だ。いつでも、何でもかんでも“俯瞰”していると単なる嫌味を超えて“変人だ”。
さて、変人ではないにしろ、変人近似値者かもしれない私が“俯瞰”などしていられなくなるのは、それこそ、それこそ下世話な話で恐縮だが“もれそう”な時くらいだ。(でもこういう下世話な話って万国共通で、しかも老若男女問わず通じるから好きです。)
この文章をお読みの皆さんはどう思うだろうか。ジョークと俯瞰と知性と、そして変人と。えっあなたも変人?それは、それは仲良くなれそうですね。ぜひ今後ともこのエッセイをよしなに!
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