シチズン(市民)養成所

教育

~いわゆるこわい先生の前ではおとなしく何でも言う事を聞くのに、私の前では小馬鹿にしたような態度をとる。単に私が舐められているわけだが、そう単純な問題でもない。
「強いものには巻かれて、弱いものには馬鹿にした態度をとる。情けないなあ。」と諭すと、その児童はいたいところを突かれたという表情をしていた。~

 上記の文章はこの春、卒業した6年生(現中1)が5年生の時に、私がブログに残した文章だ。こうしてみると学童では毎年こんな会話が交わされている。繰り返す学童での1コマと言えるのかもしれない。

 少し話は飛躍して、ここから先は私個人の見解だが、

「教育機関であれば、学童であれ何であれ、民主主義にふさわしい市民(シチズン)の養成所としての一面を持つべきだ」

と思う。では民主主義にふさわしい市民(シチズン)とそうでない存在(群れ)とを分けるのは何か?その最も解りやすい例を以下に述べる。

 集団(ここでは敢えて集団と言う言い方をする)の中で自分より上位者と、下位者がどちらも同じ倫理的によろしくない行いをしたとする。上位者に対しては何も言えない、もしくは言わないのに対して、下位者に対しては声高にその非を責め立て馬鹿にする。

 これこそが民主主義を担う市民(シチズン)として忌むべき最低最悪の行為だ。何故なら「法の前の平等」と言う概念を完全に無視しているからだ。これでは古代の、

「同じ罪を犯しても奴隷は目をくりぬかれ、平民は鞭打ち、貴族はその罪を問われない」

という身分法と何ら変わるところがない。「法の前の平等」と言う概念を人類が手に入れるのにどれだけの代償を払ったのか?それを全然わかってない。歴史を学ぶ事は本当に本当に大切なのだ。

 さて、その事をわきまえた上で子供たちを見て見ると面白い。言い方は悪いが彼らはまだまだ「群れ」の域を出ない。それはそうだ。これから民主主義にふさわしい自立・自律した「市民」になってゆく過程なのだから。

 そういう諸々の事柄をふまえてみると、私は自分が何故「武力」で以て威圧するのを嫌
うのか?が解ってきた。「武力」で以ていう事を聞かせるのは正直簡単なのだ。でもそれで
は結局、先の

「~いわゆるこわい先生の前ではおとなしく何でも言う事を聞くのに、私の前では小馬鹿にしたような態度をとる。(以下省略)」

の「こわい先生」に自分を置き換えることに他ならないからだ。それでは市民(シチズン)
の養成所としての役割を果たさない。だから「武力」を用いるのは本当に最後の最後の手
段なのだ。

と、まあこの文章を読んだ児童たちがこちらの意図を理解してくれたら話は早いのだが・・・。
そんな事があろうはずもない。時間と労力と忍耐で以て少しずつ民主主義にふさわしい「市
民」を育ててゆくしかないのだ。そうしてみると「教育」と言うのはすこぶる大変な仕事
なのだ。もう少し給料が上がってもいいのでは?などと考えるのはおこがましい事だろう
か・・・?

 話しは始めに戻るが、先の文章で出てきた児童のK君はこの1~2年でずいぶんと成長し
て学童を卒業していった。ハセガワ先生サッカーを教えてくれてありがとう!と手紙にあった。もっと大切な事を教えたつもりなんだけどなぁ?でもそういうのって敢えて言葉にしないのが男って奴なのかもしれない。サッカーがんばれよK君!!

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