ならぬものは

教育

 昔1人で会津の白虎隊の里へ行った事があった。そこで旧会津藩には「ならぬものはならぬ」という教えがある事を学んだ。その当時は「なるほど、ならぬものはならぬ」カッコいい。と思って帰ったのだが、現在では少し見解が異なる。
 
 今風に言うとダメなものはダメ!子供をしつけるには使い勝手のいい言葉だ。ダメなものはダメ!でもあまり多用しすぎるのはよくない。何故なら、それ以上考えることを放棄させてしまう恐れがあるからだ。戦争はダメ、人を殺してはダメ。それはその通りなのだ。でも何故戦争はダメなのか?人を殺してはダメなのか?そこをしっかり考えないといけないのではないか?

 戦場である兵士が上官の命令で一人の民間人を射殺した。兵士は自分に問う。俺は上官の命令とはいえ民間人を殺した。あの民間人を憎んでいたわけではない。殺すだけの理由があったわけでもない。俺と同い年くらいだった。あの男にも家族がいたのだろうか?恋人がいたのだろうか?あの男はoasisのTシャツを着ていた。Oasisが好きだったのだろう。こんなところで出会わなかったら、状況が違ったらoasisの話で盛り上がれたかもしれない。「あの兄弟は口汚く罵り合っているけどどっかでしっかり繋がってんだよ。それでいいのさ。」なんて。打たれた瞬間あいつは驚いた顔していた。「なんで俺が撃たれるの?」って。でも仕方がない。上官の命令だったんだ。従わなければ俺が命令違反で銃殺刑だ。いちいち何でおれがこいつを殺さなきゃいけないんだ?とか考えたり悲しんだりしている暇はない。悪く思うなよ。そうだ。これ以上考えるな。俺は機械みたいになっちまおう。撃てと言われたら撃つ。そこに感情の入る余地はない。そうすれば楽だ。もう考えるのも、感じるのもたくさんだ。俺は機械だ。機械みたいになっちまえ!

 戦争の何がいけないかって、(私も実際に戦争を体験した世代ではないから想像するしかないが)想像する力、考える力、感じる力が失われてしまうからいけないのではないか?考える事、感じることを自ら放棄せねばならぬ状況、それが戦争なのではないか?そしてそれは他ならぬ人間性の放棄だ。だから戦争は悪なのだ。我々の人間性を放棄してまで一体何を得ようというのだろうか?人間性を犠牲にして得た何かで我々の人間性は豊かになるのだろうか?

「ならぬものはならぬ」は使い方によってはそれ以上考えることを放棄させかねない一面を持っている。「それ以上考えるな!」と言うのは人間性の放棄につながりかねない。その意味で「ならぬものはならぬ」に対して現在の私はいぶかしく思うのだ。旧会津藩の方々には悪いが・・・。

 もう一度確認するが、なんで・なんで・なんで?どうして・どうして・どうしてと問う事が人間の本質だ。考えること感じることを放棄するのは、人間性の放棄に他ならない。人間は機械ではない。よって、「思考停止」を促すような言葉は本来用いるべきではない。「ならぬものはならぬのは何故か?考え続けよ!」これが私の基本姿勢だ。もっとも考え続けていたら何もなし得ないという事もあるが・・・それはそれでいいと思う。

 この文章をお読みの皆さんはどう思うだろうか・戦争がなぜいけないのか?なぜ人を殺してはいけないのか?もう一度腰を据えて考えてみてはいかがだろうか?

コメント

タイトルとURLをコピーしました