どうでも「いいね」と本当の「いいね」

雑記

 以前NHKの「漫勉」である漫画家の先生がおっしゃっていた。自分は登場人物が「葛藤」する場面にこそ心惹かれると。主人公が自分の属する組織に潜むスパイの暗殺を上から命じられる。主人公は暗殺の機会をうかがいながらそのスパイと日々を共にする。そのうちにスパイとの間に友情が芽生えてしまう。彼の境遇や信条も解り、誰よりも彼が大事な友人になってゆく。でも組織の命令は絶対だ。彼を殺さねばならない。組織の掟と友情の間で主人公は苦悩する。その「葛藤」する主人公に自分自身を重ね合わせ夜中うなされたことがあるそうだ。そういう作品にこそ、その先生は心惹かれるとおっしゃっていた。
 

 さて話は卑近ながら私の文章に移る。私はこれまで130余りのエッセイをこのブログに残してきた。1つ解ったことがある。先に述べた、「葛藤」するような文章、人間の本質に迫る文章、鬼気迫る文章には押しなべて「いいね」が少ない。それに対し、前回載せた「叱る」の様な誰にとってもごく当たり前で前向きな文章には「いいね」や「シェア」が多くなる。では、私自身が考える「葛藤」するような文章、人間の本質に迫るような文章が読者から読まれなかったかというと、そんなことはない。むしろその逆だ。「いいね」はされなくともアクセス数は多い。逆に万人受けする当然のことを前向きに述べた文章は「いいね」の数は多くてもアクセス数が伸びない。面白いことに気づいた。読者の多くは私が真に迫ると思って書いた文章には「いいね」はしなくとも確かに読んでくれている。こちらが面白いと思う文章にはアクセス数という形で確かに反応がある。嬉しい限りだ。

 それと同時に「いいね」って何だろうと思ってしまう。ゆるやかな当たり障りのない肯定感情であってそれ以上でもそれ以下でもない。確かに自身の立場や信条を明確に表現することはリスクが伴う。それを避けての「いいね」文化なのだろうとは思う。でもそれって《どうでも「いいね」》に過ぎないのではないだろうか?「いいね」とは我々を取り巻く「ゆるやかな肯定感情」であり、これがSNSに代表される時代性なのかなとも思う。さて時代遅れ、もしくは(偉そうにも言わせていただくなら)時代を超越したいと思う私にとっては「どうでもいいね」は要らないから「本当のいいね」が欲しいと思う今日この頃だ。で、思うのだが、この文章『どうでも「いいね」と本当の「いいね」』に「いいね」して下さるような読者をこそ私は大切にしていかねばならない。この文章に「いいね」して下さる方「本当に有難う」これからも読んでやってくださいm(__)m

ニセモノなんか興味はないわ
ホンモノだけを見つけたい
LOVE2000(作詞 hitomi 作曲 鎌田正人 唱hitomi)

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