とがった男

友人

 仙台で一人暮らしを始めたばかりの頃に買ったのがHジャングルウィズT(何のことはないダウンタウンの浜田雅功を小室哲哉がプロデュースした)ウォウ・ウォウ・トゥナイト~時には起こせよ、ムーブメント~だった。文学部に入学して初めてできた友達?に、けちょんけちょんに貶されたのをよく憶えている。曰く、こういうのを買うやつがいるからダメなのだと。

 その後も文学部でできた友達の多くは、いわゆる売れ筋の楽曲をとことん馬鹿にした。当時、北関東の山間の町から仙台(当時の私にとっては大都会)に出てきた私はふ~んそういうものかとよく解らないままに納得して、いわゆる王道のラブソングやポップミュージックを斜に構えた目で見るようになった。つまりは感性のとがった男を気取ったのだ。でも、今にして思えば文学部に来る男なんてほとんどは「感性のとがった男」と言うよりも、俺はお前らとは違うんだと“とがりたかった”だけの自意識過剰な男どもだった。本当に感性のとがった人間は他人の音楽の趣味などどうでもいい。それは後になって分かった事だ。

 そのようにして出来た文学部の友人の中で一人他とは毛色の違う男がいた。その友人もやはり当時の売れ筋の“グレイ”や小室やらを嫌っていたのだが、彼は遠くを見つめる視線でこうも言っていた。「就職とかして、結婚とかするようになったら俺もグレイとか聞いちゃうんだろうな(笑)。」この友人が他の文学部の友達の多くと一線を画していたのは、心のどこかで“とがりたがっている自分”がいる事を客観視していた事だった。

 それ以来我々は実に多くの事を語り合ったし、彼は今でも私のブログを読んでくれている。サッカーのTVゲームで「届け、この想い!」と言ってスルーパスを出していたのもこの友人だ。非常にシャープな知性を持ったオノコだった。それは今でも変わらない。

 こう言った友人たちの影響で私もまた“とがった男”にあこがれた。でも最近ではそれが変わってきた。自分は自分でいいやと思えるようになったのだ。単に丸くなっただけかもしれない。思うにそれはこのブログを書き始めてからだ。このブログを綴る事で私は私自身になったのだと思う。そうしたら別にとがる必要なんてない事に気づいたのだ。

 10年近く続けているこのブログの最初の頃を今読み返すと面白い。当時の記事には椎名林檎さんがよく出てくる。そういえばこのころは椎名林檎さん(東京事変)の『落日』と言う曲を何度も何度も繰り返し聞いていた。今にして思うとその頃私は“失恋”していたらしい。そして失恋から立ち直ったのもやはり文章を綴ることによってだった。(人生最大の失敗より)

 そんなわけで、YouTube music で音楽聞き放題のすべを手に入れた私は当時敢えてそっぽを向いて聞かなかったグレイを今聴いている。 Howeverにしてもbe lovedにしても生きてく強さを にしても良い曲ばかりではないか。とがったふりなんてする必要はない。自分が良いと思うものを聞けばいいのだ。

 さて、この文章をお読みの皆さんはとがっているだろうか?思うにとがる必要なんてないのだ。ただ自分でありさえすれば。そしてあなたはあなた自身以外の何物でもないのだから!

コメント

タイトルとURLをコピーしました