今、中田敦彦さんが熱い!何が熱いって、松本人志さんに嚙みついたからだ。いや、嚙みついたというのは表現が悪い。松本人志さんに各種お笑いのコンテストの審査員をやりすぎでは?と物申したのだ。この中田さんの発言がお笑い芸人の間で波紋を呼んでいる。日本のお笑い全体が松本色に染まりすぎでは?それでは松本さん的お笑いの価値基準に引っかからない才能は日の目を見ずに終わってしまうのでは?それは日本のお笑い界全体にとっての損失なのでは?というのが中田さんの言い分だ。
正直私はお笑いに詳しいほうではない。ただ、お笑いにも様々なカラーがあっていいのだということはわかる。単一の価値観で染まってしまった社会など百害あって一利なしだ。つまり、お笑いの世界にも多様性が必要なのだ。私の勤める学童だって1.2年生相手に笑いを取るのと5.6年生相手に笑いを取るのでは天と地ほど違う。
高学年に対して例えば
「こんなアイドルいやだ!どんなアイドル?」
「全員かわいくない」
と言うとウケるが、低学年ではそうはいかない。低学年の子供たちにはリズムネタや、品のない例で申し訳ないが「うんち」とか「おなら」とかそういう話題のほうがウケる。笑いにもいろいろあって良いのだ!
松本人志さんがお笑いの分野で果たした功績は大きかったのかもしれない。でも、だからと言ってお笑いの価値基準を自分一色に染めてしまうのは無論よくない。
それ以上に問題なのは、映画『大日本人』を見て私は正直一向に面白くなかったのだが、それを友人の間で言うのがはばかられる空気が出来上がっていた点だ。お笑いなどに関して全くの素人の私たちの間ですら、あのしょうもない駄作を「つまらない」と切り捨ててしまうと自分には笑いのセンスがないと自ら墓穴を掘るような、そういう空気が出来上がってしまっていた。「お笑い」ってもっと自由で開放的なものではなかったのか?そして「そういう空気」を造り上げていたのは松本さん、もしくは彼の周囲で、彼を「お笑いの天才」として祭り上げた関係者たちだったのではないか?
私も昔『一人ごっつ』を観ていて、松本さんがコメントした後、自分のコメントに自分で笑っていたのを見て「何だかなあ?」と思ったのをよく覚えている。どんなに面白い人でも滑ることはままある。そういう時「それつまらねえよ」と言ってやるのは周囲の人の責任なのだ。祭り上げて神格化されるのは本人にも問題があるのかもしれないが、何よりも周囲のマスコミや大衆の責任なのではないか。作られた英雄という表現があるが・・・。松本さんも「作られた天才芸人」といった側面があったのではないだろうか?
そんな訳でとにかく私が言いたいのは映画『大日本人』は本当につまらなかったという事。
それから、何かというと誰かを祭り上げることによってそのおこぼれに与ろうという気質の人間が私は嫌いだ。虫唾が走る。どんなに行いの正しい人だって間違いは犯す。でもそうなった時、祭り上げた側が責任を取ることは決してない。
話は飛躍するがいわゆるパラダイムシフトというのは世代交代によってしか為されないらしい。いわゆる松本人志的笑いというパラダイムが一度出来上がってしまった以上、10年とか50年とか経たないと価値観の変革は難しいと今日読んだ本に書いてあった。中田敦彦さん一人が気を吐いても現実には難しいのかもしれない。『大日本人』って今思うとどこがおもしろかったの?と大きな声で言えるようになるにはまだまだ時間が掛かりそうだ。何だかまるで、どこかの芸能事務所のようだ。
その意味では中田敦彦さんのような人はあと10~50年もすると評価されるのかもしれない。いや、待てよ。という事は私、長谷川漣が評価されるにも少なくともあと10年は待たなくては駄目という事だろうか?やれやれ。
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