今までいろいろな約束をしてきた。果たせた約束、果たせなかった約束、いろいろだ。ただ、誰と交わした約束が一番多かったかと言えば・・・それは自分自身に他ならない。もしくはこういう風にも言える。「約束は必ず守る」という「約束」を自分自身と交わす。その意味で、私にとって「約束」とは詰まる所、自分自身と交わすものなのだ。この「自分自身との約束」を主題に描かれたのが、20世紀最高の小説と言われる『グレイトギャツビー』だと私は自分なりに解釈している。
かつては恋仲にあったが、今は人妻で子供もいるデイジー。そのデイジーを取り戻すことに情熱を燃やすギャツビー。だが、「相互作用から醸成されるのが愛」だとするならば、その情熱は愛とは異なる。何故ならデイジーは流されやすいだけの俗物的な女性だからだ。それは最終的にギャツビーを捨ててトムとよりを戻す事からも伺える。では、ギャツビーの情熱とは何なのか?それは私に言わせるならば「自分自身との約束」に他ならない。ギャツビーはかつて自分自身に誓ったのだ。「必ずデイジーを手に入れる」と。自分自身との約束を守るため、自分自身を裏切らないため、ギャツビーは非合法な手段まで用いて富を手にし、デイジーに近づいた。最終的にどのような結末が彼に用意されているのか?自分自身と交わした約束、それを果たし得たのか?それは読んでいただく他ないのだが・・・。
以前この作品について兄と話したことがある。
「興奮と退廃の1920年代アメリカ。第1次世界大戦後の超高景気の中で、カネが有り余って欲しいものは何でも買えて、そういう中でカネでは買えない何かに魅了されっちゃったんじゃないのかな。グレイトギャツビーのグレイトはどっちの意味だったんだろね?敬意だったのか?嘲ってたのか?もしくはその両方なのか?」
「俺は肯定的に捉えていたんじゃないかと思うよ。愚かと言ってしまえばそれまでだけど、その愚かさにこそ魅かれるんじゃないかな。安っぽい言葉だけど生き様って奴だよ。」
「なるほど。生き様ね。」
そう。生き様なのだ。この作品を読んで私が何に心を震わせたのか。それはギャツビーの生き様に他ならない。人は誰でも自分自身にルールを課す。自分自身と約束する。自分自身に誓う。でもそれを全うする人なんてこれっぽっちも居やしない。何やかや理由をつけて自分自身を裏切る。それが当たり前なのだ。でもギャツビーは違った。彼は自分を裏切らない。最後の最後、自分がデイジーの罪をかぶってまで彼女を守ろうとする。彼女が自分の事を愛しているかどうかもあやふやなのにだ。先にも述べたようにギャツビーのそれは愛とは違う。彼は最後まで自分との約束を守った。自分に忠実だった、解りやすい表現をすると「まっすぐ」生きた。その生きざまが私の心を震わせたのだと思う。
自分自身との約束を果たす。その意味でギャツビーの生き方は自己完結的だ。他者との関わりの中で生きるのが人としての当前の在り方だとすれば、ギャツビーのそれは哀れなものかもしれない。でも、その哀れさを含めて、それが彼の生き様であり、それを指して「グレイト」なのだと思う。
今回「約束」と言う切り口からフィッツジェラルドの『グレイトギャツビー』を読み解いてみました。この文章をお読みのあなたは「自分自身と約束」していますか?自分を裏切らない生き方とは難しいものです。でもチャレンジする価値はあるのではないでしょうか?
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